通常日記

手抜き日記。
 

 

 

  • トルコ、EUの依頼拒否 アフガン難民引き受け:時事ドットコム
    • これも前回日記で書いた『人権意識』の限界だよねえ。別にだから悪いとかほら見ろとか言いたいわけじゃなくて、人権を守るためのコストというのは必ず存在していて、自国民はともかくでは他国民のそれを一体誰がどれだけ支払うのか。トルコは拒否した、んじゃヨーロッパはどうするの??? そして日本で『人権』の心配をしている人たちは?

 

 

 

 

 

 


 

 
 

私たちは「単に人間であるということに基づく普遍的権利」というタテマエを守り続けることができるだろうか?

あるいはそれを諦め上川法相のように「白々しい」「どの口で言う」と批判されるようになるのだろうか?


「人権守ろう」に大ブーイング、「白々しい」「どの口で言う」―上川法相に批判相次ぐ(志葉玲) - 個人 - Yahoo!ニュース
うーん、まぁ、そうねえ。
この件についてはまぁクソオブクソなのでまったく彼女の行動については擁護できないので、「白々しい」「どの口で言う」と批判されるのもやむなしだとは思うんですが、ただ現実問題として現代の国際関係としてはもう気軽に「(普遍的権利である)人権を守ろう」とは気軽に言えなくなっているのも事実だとは思うんですよね。
Myじんけん宣言 | 人権ライブラリー
ということで自称リベラルな僕としても、折角だしこのトレンドにのって現代社会における『人権』についての個人的見解を書くならば、

自らが取り組む人権課題を選択し、宣言することによって、個人の人権課題への取組を促すものです。
「Myじんけん宣言」を、人権に取り組むきっかけとしませんか。個人の「Myじんけん宣言」をすると、宣言書として印刷することができ、様々な場面で活用することができます。
「人権」は、誰にとっても身近で大切なものです。「人権」を難しく考えずに、「Myじんけん宣言」をして、誰もが人権を尊重し合う社会を、一緒に実現していきましょう。

Myじんけん宣言 | 人権ライブラリー

おそらく、今後の世界では『人権擁護』というポジションは、中国との決定的対立を覚悟した上でそれを言わなければいけなくなっていく――そこで更にドラゴンスレイヤーあるいは反中ネトウヨな言説に利用されていくのも間違いなくて、その意味で人権意識というのはより縮小された概念になっていくんじゃないかと僕は思っています。
それこそ一歩間違えれば「白々しい」「どの口で言う」と批判されるのは私たち自身の方でもありそうだなあ、なんて。




そもそも、アイケンベリーが指摘していたように、両大戦後から始まった「リベラルな国際秩序」というのは勢力均衡や支配ではない立憲という類型から、現代世界において『人権』というのは大前提の概念となっているわけでしょう。そのルールを定めたアメリカやヨーロッパを含めた誰もが人権擁護の政策を基本原則として支持することで、世界に安定した秩序をもたらす。故に彼ら彼女らは常に人権問題を最優先に訴えてきたわけで。
その是非はここではさて置くとして、ところがその国家に依らず誰もが普遍的権利を持つ人権という考え方は既存のウェストファリア体制とは本質的に齟齬を来すものでもあります。
かくしてここで国家主権対人権という避けては通れない二者択一に直面することになる。内政干渉を否定しては、誰もが同じ人権を持つなんてこととても言えない。
これまではその矛盾を見て見ぬフリを続けながらも、ルワンダ虐殺の反省から国連を中心に『保護する責任*1』といった考え方を推し進めてきた欧米世界であったものの、そこで『人権』という価値観にそこまでコミットしない中国の台頭によって話は変わってきたんですよ。アメリカの後退と、あるいはヨーロッパでも進みつつある内部崩壊という意味でも。
国際社会が人権を大義名分に「保護する責任」を負い、故に内政干渉が許容される、というリベラルな国際秩序の進捗はここで決定的な停滞、あるいはその維持の危機を迎えつつある。
現代中国が堂々を表明するように、やはり内政不干渉の方を優先させる方が世界平和に役に立つのではないか? なんて。
そうしたリベラルな国際秩序の終わりの始まり(か?)、というのが現在の米中対立の文脈にある議論でもあるわけで。


その上で、はたして我々は今後もこれまでの20~30年間と同じように堂々と『人権』を擁護することができるのだろうか?
と聞かれると、うん、まぁ、そうねえ……、とやっぱりちょっと悩んでしまいます。



上記日本国内の入管問題のように国内的な問題だったら話は簡単なんですよ。いや、それでも欧米諸国がシリア内戦などで実際に直面していたように、「一体どこまで難民を救済する義務があるのか」という問題は尚も残っていますけども。
しかしそれが国外の問題となると、これまでのように無邪気に大きな声でそれを主張できなくなりつつある。
他国のことだからと途端に小声になってしまう正直な私たち。
「女性は働く権利のため闘うべき」 アフガニスタン脱出の人権活動家 - BBCニュース
タリバンの市民処刑巡る報告「信頼できる」 国連人権代表、監視要求|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
どう考えても現在のアフガニスタンでは、その普遍的権利は喪われようとしている。
『保護する責任のある』はずの我々はアフガニスタンに再び人道的介入をするべきなのだろうか?
それとも放置することで、アフガニスタン国民の人権は当事者ではない我々にとってそこまで重要ではない、と考えている身も蓋もない事実を認めるべきなのだろうか?


人権よりも、他国の内政に干渉しない自国の平和の方が重要である、という考え方には確かに一理ある。
というかウェストファリア体制って本来の意味こそ違えど、つまるところ無用な戦争を減らすことを第一目的にしていたのは間違いないのだし。
おそらく、2021年の現代世界でもアフガニスタンウイグルやシリアやイエメンやスーダンなどの人たちには私たちと同じ人権は無いと認めた上で放置してしまえば、短中期的に平和を買えるのは間違いない。
アフガン自衛隊機派遣/何のために派遣するのか/小池書記局長が批判
その点共産党さんなんかは、現代日本の政党でも珍しいガチな「平和優先」な思想で一貫性があるなあとちょっと感動してしまうんですよね。アフガニスタンの国民の権利はどうでもいい、日本には『保護する責任』はない、としている点でまったく同意はできないんですけど。



こうした諸外国の状況を放置しておきながら、「人権守ろう」なんて言っていたら、やっぱりそれも上川法相が批判されていた「白々しい」「どの口で言う」という構図そのまんまだと思うよ。
それはまた貧しい国々へ回すべきワクチンを強奪している政府を諫めるどころか、もっと急げと要求する我々の所業としても。

いやあ「単に人間であるということに基づく普遍的権利」というタテマエを守るのも楽ではないよね。
国家主権対人権、という新旧国際秩序の戦いが再び始まろうとしている現代世界について。
国内の入管問題だけではなく、アフガニスタンウイグルのニュースなどの人権侵害な国際ニュースを現在進行形で見ている、みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:保護する責任 - Wikipedia従来の人道的介入の概念に対する先入観を払拭し、新たに軍事的・非軍事的介入の法的・倫理的根拠を模索することを目的に、2000年9月にカナダ政府によって設置された介入と国家主権に関する国際委員会(ICISS)が作成した報告書に基づいて定義された。

僕らはみんな相身互い

「人にきびしく(自分にやさしく)」な人たち。逆だったらロックだったのにね。



東浩紀氏「フジロック出る人は一時のノリで五輪反対いうべきじゃなかった」 - 音楽 : 日刊スポーツ
割とちょっとアレなことを言う人という印象でしたけども、しかしこのお話には同意するしかないかなあ。

東氏は20日、「フジロック出る予定の人、応援するため観客になる予定の人は、一時のノリで五輪反対とかいうべきじゃなかったと思いますね。ブーメランと批判されるのは明らかなんだから」とツイートした。アーティストの出演キャンセルが続いている点についても「直前の出演辞退も意味不明(べつに感染拡大予防につながらないので)」とバッサリ切った。

東氏は「ぼくがいいたいのは、別の表現でいいかえれば、フジロックやってもいいけど、それならほかのひとの行動にも寛容になれよってことですよ。自分たちが我慢できないのに、他人にばかり我慢を要求するなってこと。人間はどうせそういう生き物なんだから」と一部のイベント関係者や参加者の矛盾を批判し、「というわけでぼくは病床拡大のみを求めてます」と自身の立場を明らかにした。

東浩紀氏「フジロック出る人は一時のノリで五輪反対いうべきじゃなかった」 - 音楽 : 日刊スポーツ

個人的なポジションで言えば、まぁ別にオリンピックも特に関心は無かったので好きにすればいいと思っていたし、同様にフジロックや甲子園これまでもこれからも僕の小規模な生活に関わることは概ねないだろうし好きにすればよいのでしょうか。
ということで少なくとも個人としては「誠実なフリ」「寛容なフリ」をすることはできているかなあと自負しております。


その一方で、今回の東さんの指摘しているように、そうした誠実なフリをすることもできない人たちが一杯いるのはこの現代社会ではある意味稀少な愉快な見世物(あるいは社会分断)になっているとはちょっと思うんですよね。
特にその極北にいるのが本邦の現政権を中心にした「政治」であるという指摘には、概ねその通りだと同意するしかないでしょう。
その不誠実さって、つまるところ国民に自粛を要請しながら政治家が会食をやったことが繰り返しニュースになっているのと構図はまったく一緒だよね。
「オリンピック地獄だな」からの答え合わせ。 - Togetter
わからないままステージに…フジロック、葛藤の3日間:朝日新聞デジタル
――ところがその一方で、そうした政治を批判しておきながら、こうして自分の事は棚に上げてしまうのは、我々人間の素朴な本質である(かもしれない)「他人に厳しく、自分に甘く」な不誠実さや不寛容さが透けて見えてしまって「人間って面白!!」とはなってしまうんですよね。
(社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める:朝日新聞デジタル
とくに社説にまで載せることでオリンピック中止を訴えた朝日新聞が、結局甲子園を『強行』しているのはクッソ面白い構図だと思っていて、毎日ポップコーン片手に楽しんでおります。


皮肉なことに彼ら彼女らが「政治が無能である!*1」や「参加者も同罪だ!*2」などと叫べば叫ぶほど、いざ自分たちが当事者に回った時に、まったく同様に義理人情と利害関係とスケジュールにがんじがらめになって動けない自分自身の醜態を晒すことになってしまう。
もちろんそこに当事者や参加者の切なる願いというモノを付け加えたっていいですけども、それだってオリンピックのアスリートたちにも当然あったし、何なら猛批判された『GoTo』だって旅行業界や観光地を救うための方策だったのにね。





その意味で言うと、人間の善意を信じ人間賛歌をモットーにするリベラルな僕としては、
政府がオリンピックを中止できなかったのは「IOCを中心にスポーツ業界からの強い要望があって『強行』したんやろなあ」と思うし、
甲子園も「去年のことがあるし今年こそと選手や関係者のために無理して『強行』したんやろなあ」と思うし、
フジロックも「音楽業界に生きる人たちにとって死活問題ゆえに『強行』したんやろなあ」と思ってます。
政府も企業も個人も、み~んな利害関係としがらみと義理と人情によってがんじがらめなんや。
それが良いか悪いかは別問題として。




いくらひどいコロナ禍であろうと、結局はその感染症対策に全振りすることができずに、利害関係と義理人情とスケジュールとの間に挟まれあがく私たち。
政治も新聞もミュージシャンも――そしてどうにか日常生活を送る大多数の私たちも、程度の差こそあれやっぱりみんな同じなんだなあとしみじみ思うんですよね。
だからこそ、最初にも引用した東さんが言うように「誠実」や「寛容」であるフリをするだけでも重要だとは考えています。
他人の行為を批判するならば尚更。
僕らはみんな相身互いなのだから。




みなさんはいかがお考えでしょうか?
 
 

*1:それ自体はまぁ程度の差はあれど概ねその通りだと同意します。

*2:池江選手に五輪辞退をお願いするのは酷くない|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

通常日記

手抜き日記。
 

 


 

 

  • 新型コロナ: サッカー欧州選手権で6000人超感染 英、決勝など8試合: 日本経済新聞
    • (特に本邦では)なんとなく中身の無い合言葉になっている「ウィズコロナ」な壮大な社会実験。コロナ以前の元の生活を取り戻すために、これだけの犠牲を払う覚悟はあるだろうか? ということを一足先に真面目に考えているイギリスは、ワクチンの速さでもそうでしたけどやっぱり先頭をいっていると言えるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 
 

人は自由になると幸福になる

「人は鉄アレイで殴り続けると死ぬ」程度には普遍的真理ではあります。


科学が解明。時間をお金で買うと幸福度が上がる | ライフハッカー[日本版]
この胡乱な現代世界を生きる上での、小さな生きるヒントになりそうな面白いお話。

この因果関係を証明するために、さらなる実験が行なわれました。実験の参加者には、ある週に40ドル(約4400円)が与えられ、モノを1つ、または自分が選んだ複数のモノを買うように指示されました。唯一の制限は、そのお金で「モノ」を買わなければならないということでした。

その次の週に参加者はまた40ドルを受け取りましたが、今度は時間のためにそのお金を使うように言われました。

たとえば、誰かを雇ってクリーニングを取りに行かせるとか、メンテナンスや配達など。

他人を雇って自分がやりたくないことをやってもらうと、自分がやりたいことをする時間が増えます。

もう結果はおわかりでしょう。モノではなく時間を購入したほうが参加者はもっと幸せを感じられ、またストレスが少なく、満足度が高くなったのです。

科学が解明。時間をお金で買うと幸福度が上がる | ライフハッカー[日本版]

まぁ『モノ』について考えてみれば割と当たり前なお話ではあるんですよね。
もちろんより高価な商品を買えば満足度は上がるものの、だからと言っていつもより二倍高額や二倍の量の商品を所有することで二倍の満足が得られるかというと、まぁ一般的にはそんなことないわけで。
ザ・限界効用逓減の法則。
あるいは、ゴッセンの第一法則。
もっと言えば、全員が40ドル配られたところで、40ドルという指定された価値に消費したという点で相対的な幸福度としては何も変わらないわけで。
一方でその40ドルを使って生まれた余暇であれば、それぞれの私たちが望むことに時間使うことで、固定化されている金額を越えた満足を得ることができる。
(上記でも指摘されているように、正確には「可能性がある」んですけども。)


この問題って一見単純なように見えて、ロバート・H・フランクが提唱した『地位財*1』と『非地位財*2』な構図も絡んで割と現代社会では真面目に考える価値のある深いテーマだとは思うんですよね。特にコロナ禍にあっては尚更。
ちなみに彼は、そこから所謂「支出の滝*3」と議論を発展させ、『幸せとお金の経済学』の中で次のようにまとめています。

①人には相対的な消費が重要だと感じる領域がある。
②相対的な消費の関心は「地位獲得競争」つまり地位財に的を絞った支出競争に繋がる。
③「地位獲得競争」に陥ると、資金が非地位財に回らなくなって幸福度が下がる。
④中間所得層の家庭では、格差の拡大によって「地位獲得競争」から生じる損失がさらに悪化した。

こうしたロバート・H・フランクの議論を考えると、上記サイトでは「時間をお金で買うと幸福度が上がる」とまとめられていますけども、彼の理論を引用しより正確に言えば「(非地位財である)自由な時間をお金で買うと幸福度が上がる」というお話だよね。
「人間は自由になると幸福になる」なんて。鉄アレイで殴ると死ぬのと同じくらい普遍的真理だというと身も蓋もありませんけど。
非地位財の筆頭の一つでもある自由の価値について。

庭の手入れをする代わりに、家族や友人と一緒に時間を過ごそうと決心する(繰り返しますが、うまくいくためには自分で決めなければなりません)かもしれません。

それとも、なかなか着手できないでいるサイドプロジェクトに取り組みますか。読書をしますか。ワークアウトですか。

つまり、自分が楽しめること、やりたいことをやるのです。

科学が解明。時間をお金で買うと幸福度が上がる | ライフハッカー[日本版]

この個人的生活における自由の価値って、上記でも触れたようにやっぱり現在のコロナ禍な社会情勢にあっては尚更、あるいはポストコロナな社会を考える上で改めて大きなテーマになっていると思うんですよね。


ここでこの問題が一筋縄でいかないのは、私たちは一言で「自由な生活」と言ってもその定義にはまぁ諸々あるわけでしょう。
――特に今のコロナで自由が無くなったと嘆く声が大きい一方で、飲み会や会議など煩わしい人付き合いから解放され自由になったと考える人たちも(僕もそうです)それなりの数として存在しているわけで。
リモートワークを続けるためなら人々は「賃金カットもやむなし」と考えているとの調査結果 - GIGAZINE
もちろんコロナ感染によって自分や周囲の人間が直接健康を害してしまったりあるいは失職してしまうのは論外だとしても、しかしコロナによって個人の自由が奪われたと感じる人たちの一方で、リモートワークなどが強制的に進むことで結果として個人の自由が増し幸福度が増大した面も確かに存在している。


コロナによって否応なしにその「自由」とそれがもたらす幸福について再考させられている現代社会。
良くも悪くも社会が変容していくのは避けられないのでしょうね。
――少なくとも僕個人として改めて考えると、マスクやワクチンなどコロナ対策で制約されるようになった分と同じかそれ以上には、非地位財としての自由による幸福度は増したのかもしれないなあ。

  • コロナを経ることによって、自由が増え私たちの社会はもう少しだけ幸福な社会になるのだろうか。
    • あるいは自由が減ることで、私たちの社会は更に幸福度の低い社会になるのだろうか。


おそらく今後もしばらくはウィズコロナな生活を強いられていくだろう、みなさんはいかがお考えでしょうか?
 
 

*1:地位財とは - コトバンク周囲と比較することで満足を得られる財。所得・財産・社会的地位・物的財など。幸福感は長続きしない。

*2:非地位財とは - コトバンク他者との比較とは関係なく幸福が得られる財。健康・自由・愛情・良好な環境など。幸福感が長続きする。

*3:トップ層の可処分所得が増加し支出が増えることで、嫉妬や羨望といった感情ではなくそれに引きずられるように徐々に下層にも支出拡大の圧力が連鎖していく構図。結果として中間層も周囲に合わせて地位財を確保する為に無理をしてでもその支出増加を受けいればならなくなる。

バイデン「逃げるは恥だが役に立つ」

これがバイデン流のアメリカファーストや!



バイデン米大統領、アフガニスタン撤収は「アメリカにとって正しい」 批判は承知と - BBCニュース
ということでアメリカの『僕らの20年間アフガニスタン戦争』が終結したそうで。いやあアレな作品にありがちで、終盤はもう打ち切り確定となりヤケクソで強引なまとめ方ではありましたねえ。概ねイラク戦争の失敗そのまんま――あちらはそれでも後半から建て直しに成功したものの――でちょっと生温かい気持ちになるよね。
もしかして脚本も同じ人が書いたのかな?(同じ人です)
孤立より承認求めるタリバン 中国やロシアはなぜ支援[アフガニスタン情勢]:朝日新聞デジタル
アフガン急変、ポキッと折れた米外交 日本の対応は?[アフガニスタン情勢]:朝日新聞デジタル
The Reasons for the Collapse of Afghan Forces | Center for Strategic and International Studies
まぁこうしたアメリカのアフガニスタン撤退については、これから識者の方たちから色々と面白い話が読めると思われるのでそれを楽しく読めばいいとして、

バイデン氏は、タリバン支配下に置いた首都タリバンの様子に「断腸の思い」だとしながらも、「あと何人、アメリカ人が命を失えばいいのか」、「米軍撤収に適したタイミングなどはない」と述べた。

バイデン氏はさらに、「自分の決定が批判されるのは承知している。しかし、この決定を次のアメリカ大統領に、実に5人目に引き継ぐよりは、自分があらゆる批判を受けた方がいい。これが正しい決定で、これがアメリカの人たちにとって正しい決定だからだ」とも述べた。

バイデン米大統領、アフガニスタン撤収は「アメリカにとって正しい」 批判は承知と - BBCニュース

個人的にはバイデンさんの「アメリカの人たちにとって正しい決定(震え声)」は概ね正しい判断だとは思うんですよね。
戦力や予算の集中という意味でもそうだし、更にはアメリカの民意という意味でも。
アメリカは『正常』に戻るのか? - maukitiの日記
孤立主義へと回帰するアメリカ - maukitiの日記
アメリカが『スーパーヒーロー症候群』をやめるにやめられない理由 - maukitiの日記
アメリカ版『新思考外交』の時代へ - maukitiの日記
以前から何度もアメリカの孤立主義について書いてきた当日記ではありますけども、やはり2021年になってもそのアメリカ世論のトレンドは変わっていないよねえ。まぁむしろ建国時点からそうなんだから、今更変わるはずもないという身も蓋もないオチではあるんですが。
世界の警察なんてやめるべきだし、世界の平和なんてどうでもいい、とぶっちゃけるアメリカの有権者たち。


ただ、そうしたアメリカ世論を身勝手だのなんだのとバカにすることは少なくとも私たち日本人は絶対にできないよね。
国民の約85%が“戦後生まれ” 「8月ジャーナリズム」と揶揄も…戦争番組の存在意義 【ABEMA TIMES】
それこそ毎年のように繰り返されている8月ジャーナリズムだって、『戦争反対』はもちろん良いし、二度と軍国主義のような国家にならないと誓うのも良いものの、結局のところ日本以外の場所からも戦争を失くすという論点にはほとんど触れられないわけでしょう。
自分たち日本が戦争を仕掛けないことと、世界から戦争をなくす(減らす)ことは、一見地続きのようで他者への働きかけという点で実はまったく違う論点なのにね。
そうした矛盾が透けていながら、自国の非戦の覚悟だけを語りながらあたかも世界平和まで追求しているかのように振る舞っているのは、こうした8月ジャーナリズムがもたらした負の側面だと思います。そんな自国第一主義的な身勝手さこそが、8月ジャーナリズムと揶揄される原因じゃないのかと。
それって露悪的に「自分たちさえ平和であればいい」とぶっちゃけるトランプ支持者よりもずっと恥知らずな態度だと思います。
アメリカ国民はそれはまぁ無責任で自分勝手だけれども、私たち日本人だってそれと同じかそれ以上に自分勝手だよね。
それが良いのか悪いのかについては、まぁ各々のポジションや想定する平和の射程にもよるんでしょうけれども。




ともあれ、ここで孤立主義志向な世論に倣って「撤退するアメリカ」を目の当たりにした我々は、自身の生命財産に関わる致命的に重要な問題を改めて考え直すことになる。
つまり、このままアメリカ自国国益を優先させることで一体どこまで逃げ恥することになるのだろうか?
台湾? 
日本?
グアム?
あるいはハワイまで?
――実はこの疑問ってソ連崩壊の端緒となった東欧諸国を見捨てる事に繋がるソ連の『新思考外交』の構図とそのまんまなんですよね。30年経ってソ連と同じ立場に立つアメリカと考えると歴史って面白い。


この疑問を考えるヒントとしては、冷戦時代のような『共産主義という脅威』のような明確な理由があるかどうか、という点に行きつくことになるのでしょう。
おそらく、今回のアフガニスタン撤退と引き換えに『民主主義を守る戦い』を大義名分にした戦いに集中しようとするバイデン新政権の意図はうっすら見えていますけども、はたしてその戦いに挑むことをアメリカ国民にきちんと納得させることができるだろうか?


対テロ戦争のような非対称戦争ではなく、いよいよ大国同士の対称戦争を戦う覚悟を一応は決めつつあるアメリカと、そしてそのアメリカの覚悟の本気さを戦々恐々と見守る同盟国の私たち。
いやあいよいよ世界が面白いことになってしまいつつあります。
絶対に私たち日本も他人事ではないし、なんなら前回同様最前線に立たされるのはほぼ確定なんですけども。


世界が平和でありますように。
 
 

通常日記

手抜き日記。