「解釈と弁明」というすれ違い通信

昨日の差別に関する日記書いてて思った事。
よくある「○○差別」についての話は、多くの場合それはもうグダグダになってしまうのは何故か。


例えば、前回日記のように、
公人が「女性差別の根本は妊娠出産にある」とか大声で言ったりなんかしたら、多分大騒ぎになる。
ちょっと前に某大臣が「女性は産む機械だ」的な事を言って大騒ぎしてたみたいに。


結局なんでこんな事が脊髄反射的に怒られるのかって、
こうした発言が「正当化・言い訳・弁明」って取られるからだと思うんですよね。


A「女性差別問題の根本的な始まりはどこにあるのか?」
B「おそらく妊娠出産の役割が大きいです」
C「こらー! その発言は女性を傷つけている以下略」
その対象への「解釈・理解・説明」を表明しただけでその意図を誤解され、反発される。
別にその差別に対する正当化を図っているつもりもないし、言い訳をしているわけでもないし、弁明をしているわけでもない。
ただ、その差別に対する理解や解釈を述べただけ、それだけで反発される。
解釈や理解や説明が存在する事が、イコール悪事を擁護しているような姿勢、と見られ批判される。
説明する事と正当化する事は別なのに。
理解する事と言い訳する事は別なのに。
解釈する事と弁明する事は別なのに。


こうした例は差別の問題にとどまらない。


沖縄の基地問題に対して、
「そりゃ中国台湾朝鮮に近い戦略上重要な位置だしね」と言うと何故か怒られたり。
核兵器問題に対して、
「でも、核保有国同士の戦争はまだ歴史上起きてないよね」と言うと何故か怒られたり。
環境保護問題に対して、
「結局お金の問題だよね」と言うと何故か怒られたり。



こうして主にネガティブな問題の多くで、
「下手に口を出して余計な反発を食らいたくない」という心理が生まれ、結果その問題解決の道は更に遠くなる。
問題の原因を正しく認識するだけで、何故か現状追認だと怒られてしまう。
本来それこそが必要であるはずなのに。


問題を解決する為の解釈を、弁明だと混同する人々が居るせいで。