「格差社会」という言葉に何となく嫌悪感を持つ理由

まるで初めて現実の壁にぶつかった幼子のようじゃないか。


実際の所、これまで日本史上のみならず世界中の全歴史において、
「格差」が存在しなかった事は無かったわけで。
人類史上世界は常に格差社会だった。


それを敢えて今「格差社会」と大声でいう事に何か意味があるのか、という気持ちになる。
もし「格差の無い社会」が存在したとしたら、それは例えば共産主義者のような人の脳内だけであったし、それは脳内理論であって案の定失敗した。
これから先も「格差社会」でなくなる事は、少なくとも自分が生きている間は絶対にないと言い切れる。


もしそれが存在する(あるいはしていた)とするならばそれは「格差社会があるなんて知らなかった」という事でしかない。
(まぁしばしば歴史上の支配者層はそうした方策を取ってきたわけだけど)


結局この辺りの話は、
『養豚場の豚に「お前はこれから食肉となるのだ」と教えてやるようなものだ』的なレトリックに落ち着くのかと思う。
格差社会であると知らない方が良かったのか、それとも知った方が良かったのか。
恐らく今更になって「格差社会」と本気で喚く人は、これまでもそうであったと知らなかっただけで。
ではそれを知ってしまった今、
彼らは幸せになったのか、
不幸になったのか。


負け組を見て安心する癖に格差社会に絶望する様は、まぁ人間らしいと言えば確かにそうだけど。


さて置き今の日本の話

古今東西全て格差社会だったという事実は置いといて、
現在の日本を「格差を意識しやすい社会」と言う事は確かにできると思う。


格差を意識する為には、自分と他人(あるいは情報)との比較が必要なわけで。
例えばインターネットという物は「格差を意識しやすい社会」というものの大きな一因となっていると言える。
過去、自分の村以外の人と全く接点を持たなかったような生活と較べれば、明らかに接点は増えた。
またそのような情報と触れる機会も。
そうして「格差社会だ!」と叫ぶ人は増えると。
(関連:ネトゲでルサンチマンが爆発する理由 - maukitiの日記)



これも現代社会の必要悪か! という毒にも薬にもならないまとめに落ち着く。