「CAST IN THE NAME OF GOD, YE NOT GUILTY」だったら楽なのに

*1


http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091115-OYT1T00912.htm
わーおこられたー。

 一方、県内移設反対派が多数を占める県議会の各派代表者からは、「民主党沖縄県連は、ずっと『県外』『国外』を主張してきた」「日本の外交問題を田舎の市に負わせるやり方は非常に理不尽だ」などと怒りの声が相次いだ。

 これに対し、外相は「基本的に国が判断しなければいけない話を、名護市民一人一人に正否を問う形はあってはならない。申し訳ない」と語った。そのうえで、「できるだけ年内に結論に至りたい」と述べ、来年1月の名護市長選前に結論を出したい、との考えを伝えた。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091115-OYT1T00912.htm


実際の所「沖縄が犠牲になってきた」というのは真実ではある。*2
その前提の上で、(今後も犠牲にするかどうか)「住民の意見を聞いて決めたい」とか馬鹿な事を言えばこうなるわけで。


誰だって犠牲になんかなりたくはない。
しかしそれに対して国家権力は強権を発動できる。必要であるならば。
その意味で最近流行ってる事業仕分けというのは正しく国家権力の発動であって、
判断基準はともかく、事業仕分け自体が批判されるべきものではない。


犠牲にされる、事業仕分け対象にされた人々と沖縄の人々。


で、同様にこれも正しい。

 一方、麻生太郎前首相は昼の麻生派総会で、「国会議員ならともかく、そうでない方々は一体何の資格で言っているのか」と述べ、民間人が参加していることに疑問を呈した。

http://www.jiji.com/jc/zc?k=200911/2009111200709


誰かを犠牲にする、という強権を誰がどのような責任において発動するのか。
それを私達は一般に選挙で選ばれた国会議員としてるわけだ。
まぁ「皆で決めたから」というある意味究極の責任分散こそが民主主義とも言えるけど。
神様が許してくれたらいいのにね。でもそれって神権政治



さて置き、
上記岡田外相の言ったような「沖縄住民一人一人の意見を聞いて決める」のも「民間人による事業仕分け」も基本的には大差はない。
誰かを犠牲にする、という事への責任をアウトソーシングするのは馬鹿な話だ、という話。

*1:「我、神の名においてこれを鋳造する。汝ら罪なし」『THEビッグオー』より。wikipedia

*2:勿論、差別とかではなく