民主主義の下での少数派の勝利

前回日記(「ネトウヨ」の正しい使い方 - maukitiの日記)を書いてて思った、何故マイノリティは声がでかいのか?というお話。


別にこうした例は「ネトウヨ」の話だけではない。日本におけるいわゆる軍事的な安全保障の話などでの「非武装論」とか、社会保障での政治的経済的な話、あるいは雇用の話でも多々見られる。そして永遠のテーマである「平等」の話でも。何で少数派は大概声が大きいのだろうか?


まぁこうした例に対して、ネトウヨの話のように「肥大化した自我を実現・防衛する為」だとか「代替による自己満足・自己実現の為だ」とか何かそれっぽい事をいうことは確かにできる。正解かはどうかは別として。


しかし一般的に言う事ができるのは、よくある話として、「民主主義におけるマイノリティは利益を得やすいポジションに居る」という点。

「少数派」による勝利の意味

そもそも投票という多数決が根本にある民主主義において何故少数派が利益を得られる自体が発生するのか?
肝心なのは「多数決」という点にある。多数派より少数派である事こそが。


普通に考えれば、相対的に見て多数での勝利の報酬と少数での勝利の報酬、どちらがより大きな報酬を得る事ができるのかと言えば考えるまでもなく少数派である。多数で分けるよりもより少数で分けたほうが受け取る勝利の報酬がでかいのは当然の話である。
これは「何故マイノリティは声がでかいのか?」という話に対する答の一つとして挙げることが出来る。勝った時の利益がより大きいから。
だからこそ少数派はより必死になる。例えば1の勝利報酬が得られる多数派の一員と10の勝利報酬が得られる少数派の一員、どちらがよりがんばるかと言えば後者である事は自明であると言える。そりゃ共産主義も失敗するわけですよ(二回目)。


こうして当然の話の結果としてマイノリティは声が大きくなる。

「多数派」による敗北の意味

少数派は少数であるが故に、勝利の意義が相対的に大きい。
という事は同じ理由で、「多数派は多数であるが故に、敗北(勝利)の意義が相対的に小さい」と言う事ができる。


多数派はその多数という要素によって、敗北のリスクが少なくなる。
一人で全ての責任を負うよりも複数で負う事の方がより分散される。ましてや相手は少数であるわけで。より小さな勝利報酬で相手は満足するだろう、と考えるのは別に間違ってはいない。つまり多数派は負けても被害が小さい。
これは責任のリスクの分散、という視点では確かに間違ってはいない。


多数派であるが故の優位性。
しかし、その事は民主主義において致命的な問題となる。


それは「別に負けても大して被害は小さいからどうでもいいや」という無関心へと変化してしまうから。
またそれと同時に「今更勝っても報酬は(多数での分配が故に)小さいからどうでもいいや」にも。

こうしてマイノリティは勝利する

上記二つの要素によって、しばしば、多数決であるはずの民主主義でマイノリティによる勝利が起こる。
多数派の無関心と、少数派の必死さによって。


別に、常にマジョリティが勝つべきであってマイノリティは不遇されるべき、と言いたいわけでは勿論ない。
ただ、「何で少数派は声が大きいのか?」や、「少数派だからどうせ無理だろ」や、「少数派なのにあいつらは不当に過分な利益を得ている」という話を考える時に、こんな話が頭の片隅にあるといいかもしれないし、無くても別に何も変わらないかもしれない。君は自由に選択する事ができる。by世界樹の迷宮風。



というわけで最後にチャーチル先生のお言葉。

「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが」