コップに残っている半分の水を指して、人はそれをどう見るのか? という話。
実際の所、沖縄米軍基地の必要性云々のグダグダはここらに集約すると思う。中国に対する備えってそこまで(沖縄を事実上犠牲にしてまで)必要なのか?という問いの根源。
反共産キ○ガイだったアイゼンハワー時代の国務長官だったダレスの言葉を借りれば、
「国も人々も、ものごとをすぐに忘れ、安心と安全の感覚に浸りたがる。ソ連の共産主義者指導者はいつも平和を語るが、彼らが基本的に暴力の使用を信奉し、それが成功すると考えれば実際に使用してきた事を忘れてしまいがちだ」
ダレスは歴史上のさまざまな事例を数え上げてこう続けた。
「共産主義の勢力範囲の周辺に孤立するいかなる国も、危機にさらされるか奪われたという事実を心に刻むべきだ。ただ集団安全保障の恩恵を受けた時にのみ安全なのだ(略)」*1
勿論この人の異常な反共精神が結果的にベトナムのドミノ理論を信奉させた、という視点は忘れてはいけないものの、概ねとして言ってることに間違いはなかったとその後の歴史的にも証明されている。
さて、かつてアメリカは実際に共産主義をこのように見ていた。少なくとも50年近く前までは。
で、沖縄の基地はその中国の対応だとしているわけだ。
これを例えば、「もうここ30年*2は中国は目立った軍事的行動を起こしていないから、もう安全だ」というのか、「まだ中越戦争でさえ30年しかたっていない、それなのに中国に対する備えを無くすのは馬鹿」というのか。
ここに両者は同じものを見ている。
しかし一方はコップの水はまだ半分あると言うように「もう30年もたった」と言い、もう一方はコップの水はもう半分しかないと言うように「まだ30年しかたっていない」と言うわけだ。ここに両者は断絶している。
それは例えば「日本の軍事脅威論」と全くの同様に。大日本帝国からもう60年前?大日本帝国からまだ60年?
この両者の意識の違いを埋めるのは難しい。しかしこの前提を無しに中国の脅威を語るのは、まぁそりゃグダグダになるよね。というお話でした。