「なぜ人を殺してはいけないのか?」のマジレスを考える前編

とりあえず簡単に検索してみた有名どころ。
倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で、「… - 人力検索はてな
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51099893.html
http://alfalfalfa.com/archives/05303.html
まぁ別に見ても見なくてもあまり関係ないかもしれない。そして以下あくまでネタにマジレスです。という予防線。

社会的動物の限界

日本におけるここ数年の殺人事件被害者数を見ると、年間500~600人程度で推移している。対して一年の死亡者数は凡そ110万人前後。で、以前からヤバイと言われている出生数がそれを切ったりしている。2009年で見ると、

 厚生労働省は31日、2009年の人口動態統計の年間推計を公表した。出生数は前年比2万2000人減の106万9000人で、微増だった前年から減少に転じた。減少は2年ぶり。
 死亡数は114万4000人で9年連続増加。死亡数が出生数を7万5000人上回り、人口減少幅は前年に続き過去最大を記録する見通し。
 女性1人が生涯に産む子供の数の推計値「合計特殊出生率」は、前年並みの1.37にとどまるとみられ、同省は「少子高齢化で人口減少は今後も続く」としている。(2010/01/01-05:08)

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201001/2010010100048

らしい。


さて置き、現代日本における殺人による死亡者は全体の0.01~2%あたりという事になる。まぁ治安とかそれに付随する心理効果を考えなければほぼ誤差の範囲。日本は特に低いと言えるものの、概ね現代社会において、総人口に対して殺人による人口減少は誤差の範囲程度でしかない。
しかしそうではない時代が確かに存在した。
現代日本でも住民が次々と村を出て行った結果「村そのものが消滅する」という様な事態が発生するように、小規模な社会では一人の人間の増減が社会の維持に致命的な影響を与える事がある。
人類が「国家」以前*1、更には首長社会、部族社会よりも更に小さな数十人単位で狩猟生活を送っていた時代。人間以外の動物で見られるような小規模血縁集団な「群れ」であった時、確かに殺人はその社会における直接的で致命的な問題だった。数十人しか居ない小集団において、殺人という人口減少が頻繁に(数年に一度でさえ)起きればその集団はほぼ確実に、上記のような田舎村よりももっと簡単に消滅する。ただでさえ外敵・自然環境・疫病・寿命という厳しい環境なのだから。その意味で社会維持にとってのタブーとしては、恐らく昔の方が重かった。
とは言っても、「人命は地球よりも重い」とか言われるこの時代、高等教育を受けている今の我々でさえ「殺人」という現象を克服できない。いわんや原始時代なんて。


後述するが人類社会がより大規模化を目指したのは、こうした内ゲバという「殺人」衝動を克服できなかった、という要素もあるように思う。殺人による社会維持へのダメージの相対的な軽減。
単純に見れば、今度は社会が数億数十億と巨大化し過ぎた結果、皮肉な話にも「殺人」という社会のダメージが小さくなり過ぎたと言うことはできる。しかし情報伝達の高速化等による「世界が小さくなった」という事実や、過度の「平和であるという盲信」は、過去の状況よりも殺人による社会不安というリスクはむしろ増大している。



「なぜ人を殺してはいけないのか?」のマジレスを考える後編 - maukitiの日記に続く。

*1:ジャレド・ダイアモンドによると社会の種類を「小規模血縁集団(数十人)<部族社会(数百人)<首長社会(数千人)<国家」と分類している