人の命は平等ではない

正直すぎるあの亡命した北朝鮮の人の話。
http://sankei.jp.msn.com/world/america/100401/amr1004010958002-n1.htm

 黄氏はさらに、日本人拉致問題は「ささいなこと」と述べ、日本が拉致問題固執するあまり、北朝鮮の人権状況の改善に向けた取り組みが阻害されることになってはならないと主張。「北朝鮮による人権侵害の核心に関心を集中すべきで、相対的に取るに足らないこの問題にはぐらかされてはならない」と述べ、食糧難や政治的抑圧が続く北朝鮮情勢の改善に力を注ぐべきだと語った。

http://sankei.jp.msn.com/world/america/100401/amr1004010958002-n1.htm

まぁ日本では当然色々批判されるだろうけど、ぶっちゃければ正直な人なんだろうなぁとは思う。


私たち日本人にとって当然のようにそんな事は受け入れられない。あるいは仮に政治的にそちらが正しいと解っていても、特に公人であればあるほど、それを認めることはできない。しかし北朝鮮が母国の彼にとっては当然虐げられている多数の人々の命のほうが重要と考えているのだろう。別に不思議な話でも間違った話でもない。
貧乏とか国籍とか民族とかそんなネガティブな意味での「命の重さは平等ではない」は当然否定される。しかし同じ命題でも、赤の他人よりも家族・友人・知り合い・同じ国民の命をより重要に考える事はある種ポジティブな意味で、前者と同様の「命の重さは平等ではない」は肯定される。それを誰が否定できるだろうか?


その意味で「国の境目が生死の境目であってはならない」とかやっていたCMは、現実の命の重さでも、そして私たちが無意識に想定する命の重さでも、どちらも当て嵌まる事はない。国の境目は生死の境目であるし、そして私たちはある面でそれが当然だとも考えている。他人の命より身内の命を優先させると。まぁだからこそわざわざTVCMでそんな啓蒙活動行っているとも言えるんだけど。
私たちは極当たり前に、大多数の北朝鮮の人々よりも、少数の日本人の拉致被害者のことをより重要に考える。そしてそこに「人の命は平等である」という概念は、まぁ無かった事にされる。
その意味ではこの彼も私たちも同じ論理で動いている。だからといって今回のように正直にぶっちゃけたら怒られるのは確実なんですけど。