罪の匿名化

さて、最近の沖縄の普天間移設やら宮崎の口蹄疫やらで色々まだまだ騒がしい昨今ですが皆様いかがお過ごしでしょうか。なんかジャストタイムで為替とかトンでもない事になっていますが、今の時点では特にネタも思い浮かばないので気にしないでいつもの日記です。政権交代以来、良くマスコミとかあるいは民主党支持者批判として、お前らどうしてくれるんだ責任取れ的な言説を良く見かけます。そんな事今更言われてもねぇ、と井戸端会議のオバちゃん的な返ししか思い浮かびませんが。


さて置き、(勿論上記のような個別例とは関係ありません)そうした一般的な大衆心理の一例として、彼らは過去の失敗を自らの反省として振り返る事があるのだろうか? あるとすればどのように? というお話。

おじいちゃんはナチじゃなかった

一部に有名だけど一般の人はあんまり知らない社会・犯罪心理学者として、ハラルド・ヴェルツァーという人が居るんです。彼の研究した事の代表のひとつに、「ドイツの家族の間で過去のナチスがどのように記憶されているか?」というものがある。

この調査でドイツの人々は、ほとんどの人が自分の家族がナチスに何らかの形で関与していたかもしれないという事を、全く否定している。そしてその中の2/3の人が同様に、自分達の両親あるいは祖父母は戦争中に大変苦労したと考えている。
しかし、自分達の家族がナチスの犯罪に直接関与していたと答えているのはたったの1%に過ぎない。

結局の所、こうした事例が示すのは、人間が持つ普遍的な「罪の匿名化」という現象である。ナチスの悪行は確かに誰かがやった事はあるけれど、しかしそれは自分の知ってる誰かではないと。
よく戦後補償の問題で日本との比較対象で引き合いに出されるドイツも、完全に克服したわけではなくこうした内部矛盾を抱えている。私達は一般に、それが意識的か無意識的かはともかく、その過去の出来事から離れれば離れるほどそしてその当事者から離れれば離れるほど、自分と関係ある(あるいは信用した)彼らには特別言及されるような罪は無かったと無邪気に考えてしまう。
そんな総論では認めつつも、個別論となるとそれは否定してしまう例。あの時は自分が知らない誰かが悪かったからで、自分の責任ではない。そうした心理傾向はまぁよくある事なんだと。


とまぁ、こうした調査から何を学べば良いのか? と考えると、最悪なのが、
かつて前回の時にも同じような事をやって失敗したのに、そんな「おじいちゃんはナチじゃなかった」=「悪いのは他の誰かだった」という空気が有効になってしまった結果、また同じような失敗を繰り返してしまう事なんですよね。


今更になって、かつての失敗の責任を取れ、なんて言うのは意味が無い。ならば今の私たちに何が言えるかと言えば、そんな事位しかないと思います。次の教訓として活かそうと。
そんな当たり前の事を言っても仕方ないとか言われるかもしれませんが、しかし、いつだって私達は「罪の匿名化」という罠に陥りやすいのだから。



参考:
Goethe-Institut Japan
『引き裂かれた西洋』ユルゲン・ハーバーマス