「すべきこと」と「できること」の悲しい乖離

リベラルな人からさえもよく言われてしまう、よくある国連批判の一つ、なお話。


スーダン戦犯におもねる国連の機能不全 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 問題は、国連の責務である平和と正義の追求、その2つがスーダンでは真っ向から対立していることだ。それは国連自らが創設した国際刑事裁判所(ICC)とのぎくしゃくした関係によって浮き彫りになった。ことスーダンの話になると、何をすべきか、誰がそれをすべきか、足並みがまったく揃わない。

スーダン戦犯におもねる国連の機能不全 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

うん、まぁ、よく言われる話ですよね。今になって始まった事では絶対にない、そんな国連の限界。
彼らには根本的に、求める正義はあってもそれを現実に移すだけの力、が無い。といってもそれは彼ら自身の責任ではないし、彼らが無能なわけでも努力が足りないわけでもない。それはもうどうしようもなく、国際連盟が当時の国家間のパワーバランスを反映したものであったように、国際連合だって現在の国家のパワーバランスを反映した中での活動しか出来ないから。アメリカやロシア中国などの大国の同意がある事以上には、元々何も出来ない。


正義を追求する事はできても、平和を実現するだけの力がない。
好意的に見れば、手足を縛られた中で、それでも彼らは彼らなりにできる事をやろうともがいている。だが結果として、そんな悲しい努力が逆に上記のような矛盾をも表出させてしまう。
そして否定的な人々から見るとそんな彼らの悲しい努力は、古典的な権力政治をやってるようにも、バランスオブパワー的な地域内の安全保障をやっているようにも、あるいはコスモポリタン的な理想を追い求めているようにも見えて、まるで迷走しているかのように映ってしまう。その挙句に「彼らは一体何をしたいのか?」とか「足並みがまったく揃わない」なんて言われて。


つまりそこにあるのは「正義と平和の乖離」である。彼らはどちらか一方しか選べない。
しかしそんな彼らを見て無能だと言うのはちょっと酷な話ではある。だってそもそも彼らにはそうした能力は用意されていなかったのだから。それでも中の人はがんばっています、そんな悲しい構図なんです。


と、みんなそんな事解っている癖に根本的な解決策(国連改革)を用意もしないで、悲しい努力を続ける人をただ応援したり批判したり見守る事しかしないのは、それはそれでまぁひどい話ではありますよね。ほんとうに「救えない構図」は実はこっちなのかもしれない。