大量生産と大量消費がもたらしたもの

2010-06-22
つまりそうした所有という概念の陳腐化、「みんなが当然持っている」という状況を生み出したのは、私たちが愛しそして同時に嫌ってもいる、大量生産と大量消費によってもたらされた。
今日では誰もが携帯電話やパソコンを持つことができる。かつては腕時計も自動車も自転車でさえ、一部特権階級の人々のものだったのに。しかし今はそうではない。


大量生産と大量消費が生み出したものは、そうしたある意味での「(低価格化による)平等」であり、その先にある「無価値化」である。
家内制から工場制、手工業から機械工業へ、技術とシステムは進化した。進化により大量生産が実現されたからこそ持続的な大量消費が可能となったし、大量消費が実現されたからこそ持続的な大量生産は可能となった。
もちろんこうした事実は確かに欠陥や矛盾を内包している。しかしそれによって私たちは普遍的な豊かさを実現してもいる。
そんな大量消費と大量生産を否定してしまったら、そうした豊かさとその先にある平等と無価値化は、一体どうなってしまうのだろうか。引用先にあるような「所有」の価値は減じたままでいられるだろうか? それとも、昔のように「所有」の価値が一部階級にのみ与えられるようなものに再びなるだろうか?


「“所有”という時代遅れ」はまぁそうした矛盾を抱えていますよね。というお話。
同じような反論で、コモンズの悲劇*1についてはめんどくさいので略。