何故ルールを破るアイツが憎いのか

ネトゲの永遠の課題でもあるRMTBOTへの嫌悪、なお話。
「ゲームの寿命を縮めているから」とか「ゲームバランスを崩壊させているから」とか、挙句に一部からは「うらやましいからだ」とか語られてしまう。実際の所、そうした感情はどこから生まれてくるのだろうか?

守った先にある共通利益

私たちはルールを守る事によって、利益を得られると信じている。
経済学のゲーム理論などが証明する、合理的な選択の結果としての利他的な行動。人々はそんな利他的な行動が、利己的な振る舞いよりも、自分自身の利益になるとある程度まで計算して行動している。


そしてまぁそんな人々の計算はここでも概ね正しい。
そんな意図していないRMTBOTの要素は遠からず「適切なゲームバランスの破壊」を招く事になるから。ただでさえ失敗の多いネットゲームにおけるゲームデザイン上のバランス設定において、もしRMTBOTのような外部性が意図せず影響していたら、それが失敗に陥るのは自明の理である。故にプレイヤーとしてそうした行為は慎むべきだ、と。

守る事自体が好きな私たち

さて置き、そんな怒れる人々がすべて、そこまで計算し見通した上で怒っているのかというとそうではない。多くの人にとってはもっと単純に、「ルールを破っている」行為自体に反感を覚えてしまう。
勿論そうした感情の奥には上記にあるような合理的で利他的な計算の結果がある。しかし私たちはいつでもそうやって合理的な見通しの中にいるのかというと、私たち自分自身も証明しているように、そんな事は絶対にない。
私たちは多くの場面で、完全に見通せない不確実性のなかで決断を迫られている。そこでまぁ私たちは苦肉の策として、自分自身の判断基準や内心、自分自身が定める所のルールに従って行動するわけだ。もちろんそれで成功する事も、あるいは失敗する事もあるかもしれない。しかしそれでも私たちは長期的に見て、何らかの一貫した明確なルールに従う事は利益に繋がると感じている。だからこそそんな自分自身によるオリジナルのルールをも内心に持っている。
そうしたことが意味しているのは2000年位前の偉い人が「人はポリス的な動物である」なんて事を言ったように、人間は社会的動物である、ということである。つまり人間は生物的にそんな社会の規範や、そうでなくても何らかのルールに従う事を本能的に望んでいる*1。おそらく、はっきりと確証はなくても、それこそが普通に正しいのだろうと感じている。


つまり私たちは、外的においても内的においても、広義の「ルール」を守る事に安心を覚える。また同時に他人にもそれを要求する。
自分が守る事に失敗すれば罪の意識を覚えるし、他人が守らなければ怒りを覚えてしまうと*2


結局の所、多くの人がRMTBOTに怒っているのは共通の利益を侵される事に繋がる、ルールを破る行為そのもの、にである。
それは当然嫉妬や羨望からではないし、規約違反による道徳心や正義感からでもない、もっと合理的な「協力して得られるはずの利益や効用」が侵されていると感じてしまうから。
別に必ずしも彼ら自身が直接的に被害を受けているわけでは確かにない。その意味でRMTBOTを「お前に直接迷惑掛かってないだろ」と正当化する言は一面において正しい。しかしそうではなく、被害を受ける事にではなくて、私たちはルールを破る事にこそ怒りを覚えてしまう。
私たちはルールを守る事によって、長期的には得る物が多いと信じているから。

参考

『「大崩壊」の時代』

*1:もちろん100%誠実な利他心を持っているわけではないが、逆に協力しようという意思をまったく持っていないわけでもない

*2:まぁそんな守らない他人たちも「守らないというルール」を彼らなりの方法で達成しようとしているんだけど