なんで多文化主義はすぐ死んでしまうん?

日本以外ではまだまだ盛り上がってるアレのお話。まぁ日本も他人事ではないんですけど、けど私たちってそういうの見ないフリ得意ですし。なお話。


メルケル「多文化主義は失敗」発言の真意 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 国を繁栄させるためにはドイツ社会と移民が互いに受け入れ合うべきだというメルケルのメッセージは的を射ている。メルケルは右派に迎合したのではない。移民を社会に溶け込ませるための常識的な道筋を提示しただけだ。

メルケル「多文化主義は失敗」発言の真意 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

まぁ何故現在になってこうした問題が盛り上がってるのかって、もちろん以前からグローバルな社会を理想としてきたんだけど、かつての時代とは比較にならないほどに良くも悪くも「多文化」が進んだからだと思うんですよね。受け入れる側の寛容の、意思や能力ではなくて、環境の限界がきてしまったから。
だからこそ今後は寛容だけではなく、もっと同化を目指すべきなのではないか? と。

原理主義的な)多文化主義多文化主義を殺す

そうした「多文化主義」という理想は確かに理想としては正しい。多くの人がそれを認めるところではあるんだけれども、それを言い始めた当時の人びとと現在のそれに少し疑問を抱き始めた人びとに、そうした寛容意識の進歩や後退の差があるのかと言うとそうではない。それは単純にかつてよりもずっと多文化が進行してしまった故の悲劇なんじゃないのかと。
当時にあった例えば各文化の割合が9:1で少数派をも寛容していこうとした試みが、それが時代と共に8:2になり7:3になり6:4になり5:5へと進行していく。そうしたかつての9:1のような比較的均一な共通の文化を持っていた時代と、現在のより文化的多様性が大きくなった社会。それは一足先にアメリカで起きて、続いてイギリスやフランスやドイツなどのヨーロッパ各国でも起きて、そして近い将来日本でも起こるであろう未来。
こうした状況においては、以前あった少数派をただ「寛容」していこうという試みは、当然の如くそのハードルはずっと難しくなっている。


人口の減少や、移民の増加や、移動手段や通信手段の技術進歩。こうした社会の変化は私たちの社会により多様な文化をもたらしている。かつては無かったほどに。
つまり、メルケル首相の「多文化主義は死んだ」という発言の意味する所は、以前は上手くいっていたはずの「とりあえず他文化をも寛容していれば全て解決する」という原理的な多文化主義のことなんだと思うんです。
しかし最早その段階は終わってしまった。
そして以前の日記で書いたように、ドイツが持つその他国よりも大きい危機感によって、いち早く原理的な多文化主義に疑念を抱き始めたと。これまで文化的な多元主義を追求するあまり、その「多文化」であることを許容するだけでなく、むしろ逆にそれを促進してきたのではないか? という疑念。故にそんな単純な「寛容」という段階から、その次の「同化」を語るべき段階にきたのではないのかと。
他者の文化を寛容することと、しかしその文化の相違を積極的に促進するのは間違っているのではないか? と。
少なくとも最低限度の文化の共通基盤さえも合意できないから今の混乱を導いてしまっているのではないか、というドイツの(これまでの原理主義的な)多文化主義への懐疑論

 移民政策に関する論争の再燃に直面しているアメリカ人も、メルケルの主張に耳を傾けたほうがいい。

メルケル「多文化主義は失敗」発言の真意 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

さて置き、こうしたお話ってアメリカでは結構昔から語られてきたお話ではあるんですよね。まさにそうした世界で最も進んだ多文化主義を標榜してきたアメリカだからこそ。で、アメリカはその一つの解答として「アメリカ国民」であることに価値を見出そうとしてきたわけだ。
だけどそれって現代ヨーロッパの人びとが欧州連合の理想と共に捨て去った、馬鹿にさえしてきた、古き良きナショナリズム的な発想だったりしたわけで。


彼らは民族にも、宗教にも、そして国家にも、その共通の文化的基盤となるアイデンティティを求めるのをやめた。
んじゃヨーロッパの人びとはこの先どこに行くのか、というと、・・・・・・うん、まぁ、がんばれドイツ。