傲慢だった罪と、無関心だった私たちの罪

いつもの「そもそも論」なお話。


尖閣ビデオ流出問題、「自分がやった」海保職員が名乗り出る 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
事件の経過や詳しい解説等はリアリズムと防衛を学ぶさんの所で例の如く丁寧にやっていらっしゃるので、そちらを参考にしていただくとよろしいかと思います。

【11月10日 AFP】(一部更新)沖縄県尖閣諸島(Senkaku Islands)沖での中国漁船と海上保安庁(Japan Coast Guard)巡視船の衝突映像がインターネット上に流出した問題で、神戸海上保安部(神戸市)の海上保安官が「自分が映像を流出させた」と名乗り出たとNHKが10日、報じた。

尖閣ビデオ流出問題、「自分がやった」海保職員が名乗り出る 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

ということで決着が着きそうです。関係者のみなさまおつかれさまでした。
結局の所、尖閣諸島沖での衝突事件からビデオ流出に至るまでのこのお話について問われていたのが「一体どちらに正義があったのか?」という話であったのかというと、それはあんまり正しくはないんですよね。つまり、本当に問われているのは「彼らには正当性があったのか?」という点であると。

傲慢だった彼の罪

(いつもの一部熱狂している人びとは除いた)多くの人がごく普通に今回の流出犯の行為に懸念を抱いたのは、別に彼が正しいとか間違っているとか正義とか正義ではないとか、そういう話ではないんですよね。
それは彼の法的手続きを無視した行為に対しての「正当性」こそが問われている。


現代社会に生きる私たちは「結果こそ重要であり手段などどうでもいい」のではなく、あるいは「その手段の意図こそが重要でありそれ以外には意味が無い」と断じるのでもなく、そのどちらでもないより中庸な価値観として「より適切な手段であること」こそを重視している。
不完全で無謬性など絶対に持ちえない私たちには将来の結果へ確実な保証を与えることは不可能であるし、かといって正しい意図が無ければ結論など無意味であると切り捨てることができるほど理念の世界に生きているわけでもない。結果・結論ではなく手段・手続きを重視するという、人間の能力の限界故の、選択。だからこそ消去法的に*1その「手段の正当性」を重視する以外にはないと私たち人類は近代以降考えるようになったわけで。
まぁその正当な手段というのが一般に、民主的・法的な手続きだったりすると。それが現代日本に生きる私たちが重視する価値観であるから。だからこそそこに(少なくとも最低限の)正当性があると認めることができる。


そうした「手段の正当性」を無視した傲慢な彼を私たちは、仮に感情的には擁護したくても、しかし現代社会に生きる以上許容する事はできない。私たちは(仮に結果的に正しいとしても)敢えてそうした瑕疵を告発しなければいけない立場にある。感情ではなく理性を以ってより長期的な利益を計るために。

傲慢だった彼らの罪

そもそも国益ってなに? 誰が国益国益と決めているの?
と、言われるとまぁ困りますよね。彼らが言う船長の釈放時や逮捕時のビデオの非公開を決めた時のように「国益を考慮して」と一口に言ってもしかし実際は、「どんな国益を」「どのくらいの量」「どの程度の期間を考慮して」いるのかさっぱり解らない。国益ってすぐに思い浮かぶだけでも、安全保障や経済的利益や文化的価値観や世界平和等々、色々あるはずなのに。彼らの言う国益って一体何?


ちなみにジョセフ・S・ナイ教授*2は著書『アメリカへの警告』の中で民主主義の下における「国益」について以下のように語っています。

わたしの見方では、民主主義のもとでの国益とは、国民が充分に考慮したうえでこれが国益だと主張する点である。
(中略)
民主主義社会での議論は混乱したものになることが多く「正しい」答えが出てくるとは限らない。とはいえ、民主主義社会で国益を決める方法として、これ以上のものがあるとは考えにくい。充分な情報に基づく論争が、国益をどこまで広く、あるいは狭く規定するのかを国民が決める唯一の方法である。*3

国益とは(たとえ間違っていたとしても)国民の論争によって決められるべきであると。
つまり国益とは一部の政府当局者の独自判断によって単純に決められるものでは絶対にない。それなのに国益であるからと「充分な論争」も「正しい論争」も切り捨てる彼らは正しくないと内部流出犯の彼があの行為に至ったのは、まぁ確かに意図としては間違っていない。


その意味で、ビデオを勝手に流出させるなんて傲慢な方法だと非難する政府も、情報を非公開にして国民に隠蔽する行為は傲慢であると非難する流出犯の彼も、ぶっちゃければ、どちらの言っていることもそんなに間違ってはいない。
彼と彼らは、まさにお互いが非難するように、どちらも傲慢な行為に至っている。
正義がどちらにあるのではなく、手段の正当性、という観点から見れば両者にはどちらにも瑕疵がある。まぁ勿論個々人のポジションによってその瑕疵の程度の差はあるだろうし、その瑕疵に自覚的か非自覚的かという問題はあるんでしょうけど。

無関心だった私たちの罪

そんなお互いに傲慢だと非難しあう両者を見て、私たち国民が笑っていられるのかと言うと、そんな事は絶対にないわけで。政府の失敗のツケはいつか最終責任者である私たちに降りかかって来るし、そしてそもそも、上記のような議論すべき「国益」に関して無関心だった過去の私たちの行いのツケが今まさにまわってきているわけだから。


今更になって「国益」という言葉の使われ方に怒ってみても、しかしそれは過去の議論をサボってきたツケが回ってきた事でしかないんですよね。
私たちはもっと「日本の国益ってなに?」ということについて関心を持つべきだったのに、しかしそうしては来なかった。まぁ確かに短期的にどうこうなる問題でもなかったし、そしてかつては「冷戦構造」という解りやすい二極構造の中である意味安穏としていられたから。反共産主義陣営の最前線だった日本の国益なんて一定以上の広がりを持つものではなかったから。
で、冷戦時代が終わった後も日本人は別に何も考えずにこれまでやってきた。
それはそうしたことを議論させないような政権運営をしてきた過去の自民党政権時代の負の遺産であり、またある意味で彼らの政権運営の巧みさの証明でもあります。まさに現在の出来事は民主党政権が外交を「ミスした」ことによって、そうした議論が湧き上がってしまったのだから。


よくかつての自民党政権時代の外交政策を批判して「アメリカに阿っている」とか、反対に現在は「中国に阿っている」とか色々言われますけど、別にそれって不思議なことではないんですよね。だってそれは単純に民主主義は多数の人びとが無関心であればあるほど、少数の利益集団にとってはイニシアチブを握るのが簡単であるから。特に日本の国益に関しては、私たち日本人の大多数の無関心さ故に、少数の利益集団(経済団体や特定のイデオロギー団体)によって他の政策以上により強い影響力が行使されてきたわけだから。ただ彼らを単純に批判することはつまり、私たちの無関心さを棚に上げている責任転嫁でもある。


だからやっぱり、今更になって「国益に考慮してとか俺たちを馬鹿にしてるのか」と怒ってみた所で、それは過去の無関心のツケが回ってきただけでしかない。

*1:まさに「民主主義は最悪の政治形態である。これまで試された全ての政治形態を除けば」と言われるように。

*2:アメリカ合衆国を代表するリベラル派の国際政治学ジョセフ・ナイ - Wikipedia

*3:アメリカへの警告』P228