私たちは「民主主義」か「多文化」かという二者択一を迫られている

そんなこれまでも書いてきた民主主義の限界についてのまとめ的なお話。以下、中身は微妙な懐疑論で一杯ですけど別にネトウヨとかそういう話ではないので石を投げないで下さい。


http://www.asahi.com/politics/update/1124/TKY201011240386.html
まぁ当たり前の話ではありますけど、またいつものように批判されてしまうと。しかしもう毎回毎回同じパターン過ぎて、いい加減学習すればいいのにという感じですよね。結論自体はともかくとしても、その杜撰なプロセスのせいで、余計に混乱を招いている。この問題だってそんな大衆迎合的で制裁的と疑われるような対応なんかしたら容認派から批判されるのは当然だろうし、そして同時に元々の反対派からすれば今更感は拭えないと。こうしてほぼ全員から非難されるという逆に針の穴を通すような選択をしてしまっている。
さて置き、以前から議論されてきた朝鮮学校無償化問題でありますが、そもそも論として私の個人的ポジションとしては、「分極化」を強力に促す教育をしているならば無償化されるべきではないし*1、しかしそうではないより日本への同化を促すような穏当な教育内容であるならば無償化されるべきだと思います。だから本来ならばそこで別に判断すべき問題であって、今回のような北朝鮮が韓国の島を砲撃しようが関係ない、全く筋の違う話じゃないのかと。


私がこのようなポジションに立つのは、つまるところ、以前から言われていたように民主主義では分極化社会に対応できないからなんですよね。つまり、ほぼ確実に、民族的摩擦や宗教的摩擦のような性格のものは民主主義社会において根本的な解決はできないし、それどころか場合によっては対立を煽る結果ともなりかねないから。それならば初めから分極化を招くようなことはやるべきではないと思うんです。それは単純に反日というよりも、より同化を目指すべきであるというこれまでの歴史の教訓として。

メルケル首相の言葉の真意

以前大きなニュースにもなったメルケル首相の「多文化主義は死んだ」*2という言葉の意味も同じことなんですよね。つまり多文化主義の死=分極化一辺倒の限界であると。少なくとも民主主義の下で分極化をこれ以上維持できないという、あまりにもぶっちゃけ過ぎてはいるけども、しかし悲しい現実。
けどそれって結構昔から言われてきた話ではあります。民主主義というシステムの限界。民主主義は確かに素晴らしい理念であることは否定できないけども、しかしそれと同じ位否定できないのが「民主主義は万能ではない」ということなわけで。前述したような民族問題や宗教問題において、妥協という行為がほとんど許されない分野があるように。妥協こそが民主主義の本質の一つでもあるはずなのに、それができない。
例えばかつてのアメリカの民族的多様性が上手くいっていたのは、現在の多極化した社会である「人種のサラダボウル」ではなかったから。それは「人種のるつぼ」と呼ばれていた時代でこそ成立していた、と現在言われているように。あまりにも多極化・分極化が進行してしまった社会においては、その社会的平等性や基本的価値観についての最低限のコンセンサスさえ得られなくなってしまう。


私たちはそうした(民主主義に必要な最低限の共通の価値観を形成する為に)敢えて同化を進めていくか、あるいはそれでも尚、原理的に多文化主義を追い求めるのか、そうした二者択一に迫られている。
初めからこんな状況にあったわけでは勿論なくて、多文化を追求してきた結果、ついに二者択一にまで至ってしまった。


故に最初に述べた朝鮮学校の無償化の問題だってそうした観点から議論されるべきだと思うんですよね。移民文化のより進んだアメリカやヨーロッパではもう既に議論されているように。それなのに何故か、反日だからとか制裁的だからとか多文化主義だからとかマイノリティがどうだとか語られてしまう、日本の現状。まぁ気の抜けるお話ではあります。
/ WSJ日本版 - jp.WSJ.com - Wsj.com
同様に上記のような日本の外国人労働者受け入れの議論も、その是非はともかくとして、その経済的影響と同じ位に議論されなければいけないはずなのに大抵スルーされてしまうと。


これまでの日記で書いてきたような、ここ最近になって特に移民先進国で議論されるようになった、民族的摩擦*3や宗教的摩擦*4の問題の根本ってこうした事だと思うんですよね。かつてのような同化一辺倒でもよくないし、しかし最近までの分極化一辺倒でもそれはよくなかった。それは単純にその両者の争いであるというよりも、よりクリティカルな問題として、多文化や分極化を追求し過ぎると自由な民主主義社会の存続までも危うくさせてしまうのではないか、という危機感。以前(それこそ上記のアメリカの「サラダボウル」とか「るつぼ」とか議論されていた時代)から言われていた問題がついにヨーロッパやそして日本まで押し寄せてきたと。
同化か多文化か、という単純な構図だったらもっと話は簡単だったけれども、しかしそうではない。
その多文化主義の反対側の天秤に乗っていたのは同化なんかではなく、実は民主主義そのものだったというお話。