「自分が殺されたくないのだから他人も殺してはいけない」的アプローチの限界

以前書いた「何故人を殺してはいけないのか?」の補完的なお話。


http://www.asahi.com/national/update/1217/TKY201012170107.html
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20101218k0000m040108000c.html
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101217/crm1012170854005-n1.htm
「自分の人生を終わりにしたかった」だそうです。ほんとどうしようもないお話ですよね。
そんな犯人の言葉を聞いて思い出すのはあの有名な池田小事件*1で、あの時もそうだったんですけど、彼らは結局の所「自分が死んでもいいから」どころか積極的に「死刑になりたいから」と思ってこうした行為に走ってしまうわけです。
そしてそんな悲劇的な例があるからこそ「何故人を殺してはいけないのか?」を考える時に、「自分が殺されたくないから当然だ」的な論理展開を持ち出すことについて個人的に躊躇ってしまうんです。
自分が殺されたくないから殺してはいけないとすれば、「自分が殺されてもいいのならば殺してもいいのか?」と更に聞かれると返事に困ってしまうから。


そこで以前の日記では、
「なぜ人を殺してはいけないのか?」のマジレスを考える前編 - maukitiの日記
「なぜ人を殺してはいけないのか?」のマジレスを考える後編 - maukitiの日記
「歴史的に社会は殺人を忌避してきたからこそ、その社会集団はより長く生存することに成功したきた。故に殺人は否定されるべきである」という歴史主義的なポジションからのアプローチで語ってみたわけですけども、しかし当然これは結構少数派なお話でもあります。


さて置き、そんな少数派とは違うタイトルのような「自分が殺されたくないから他人も殺してはいけない」的なよく聞かれるそもそも論のお話は、実際かなり古いお話でありまして。それこそホッブズさんやロックさんの頃の近代自由主義基本的人権という概念の成立期からあった話なんです。彼らはその殺し合いという「自然状態」から脱却する為に普遍的な人間の権利を唱えたわけで、人間は簡単に他人を殺せるし殺されてしまうから、故にそこから脱却しようと。
でも良く見るとそんな本来の議論と「自分が殺されたくないから云々」的なお話は、似ているけども実際別なお話なんですよね。
つまり一方はその殺し合いという自然状態を許容した上で、だからこそ人間の基本的権利という「殺してはいけないルール」が必要だと唱えたのに対して、しかし後者はその最初の暴力が支配する自然状態をも否定してしまっている。それって因果が逆転してしまっているんじゃないのかと。まず自然状態という状況を認めてこそ、普遍的な人間の権利という概念が生まれたように。
故に「自分が殺されたくないから他人も殺してはいけない」というアプローチは、そんな基本的権利な方からであっても、個人的にはあまり筋がよろしくないと思うわけであります。


まぁもっと根本的な絶対善として「人を殺さない事に理由など要らない」なんて気軽に言い切れたら楽な話ではあるんですけど。
ともあれ皆さんはいかがお考えでしょうか?