学校の掃除にインセンティブなどない

「学校の掃除」の必要性について。まぁインセンティブって確かにかっこいいですよね。


学校の掃除って必要なの? - Togetter

学校掃除ってあんまり要らない気がする。生徒じゃなくて業者が掃除すれば学校ももっときれいになるのに…。

学校の掃除って必要なの? - Togetter

まぁその物理的な意味で言えば、彼の主張する事は正しい。生徒たちが遊び半分に毎日やるよりも、数日おきにでも業者を使った方が確実にきれいにはなる。故に「(生徒による)学校の掃除に意味はない」と帰結する彼の主張はその面で言えば概ね正しい。


で、彼が根本的に勘違いしているのは、別にそれって学校を綺麗にする為にやっているわけじゃないんですよね。
より正確に、そして理解をさせようとして説明するのならば、学校の掃除は教育の一環であるから。その社会における基本的な(そして最低限度の)共通の価値観の刷り込みの為に行われている。引用先でもその命題に対する反論として、「正しい価値観」だなんておこがましい、なんて批判もあるけれどそれもまぁ「正しい」とするのならば同意できるけども、しかし実際こうした場合においてより正確に言うのなら「共有されている価値観」と言うべきでしょう。少なくとも日本の社会の大部分で共有されている、掃除はするべきである、という価値観とその先にある公衆衛生や自立心などの価値観を。
つまり私たちは、掃除を義務化することによって、その行為を一般化させようとしている。


「公衆衛生」という概念がそれこそ中世の頃には全くなかったように、私たち人間がそうしたものを自然に獲得する、なんてことはほとんどないんです。体系的な公衆衛生の概念だって一般の人びとにまで浸透し始めてからまだ200年経っていない。
そんな公衆衛生や、よく言われる人間の権利や、あるいは厳密な時間管理、という私たち現代人の多くが持っている「常識」というものはまず教育されてこそ学習し獲得した後天的な性質なわけで。先天的に備わっているものでは絶対にない。それを獲得してしまった後から「何故あんな当たり前のことをやっていたんだ?」と疑問に思ってしまうのは無理のない話だけれども、しかしそれは既に獲得した後だからこそ言える発言なんです。そうしたことに何の疑問も無く思ってしまうのは、根本的に人間の生来の能力や価値観に関して、誤解をしているとしか言いようがない。
現代に生きる私たちは、教育され学習しているからこそ、今の場所に立っている。
彼のような中学生であるならば、その疑問を持つこと自体は当然批判されるべきではないし、むしろ好ましい傾向であるとさえ言えるんだけど。


何故学校の規則はあんな無意味に厳しいと感じるのか? - maukitiの日記
以前の日記でも書いたように、その意味では「学校の掃除」という教育方針についてきちんと教育側がその意図を説明しているとは言い難い。だから疑問に思うのはある意味で優れた資質の発露でもあるんですよね。
彼らはしばしばもう初めから「何故なのか?」に対する説明を放棄さえしていて、とにかく習慣と反復によってその価値観を刷り込もうとしている。その強引な方法については確かに批判される面もあるけども、しかしその意図を全ての生徒達に納得させられるように理解させるのはおそらく受け手側の能力の限界もある以上、現実的ではないのでしょう。だからこそ、そうした方法論はまだ未発達な小中学校の間でよく用いられるわけで。説明して納得できるなら初めから掃除なんて必要はないし、そうなんだけれども、でもそのことを論理的に子供に理解させるのはかなり難しい。だからこそ私たちは子供の教育や学校教育において、とにかく刷り込みという方法を採ることが多い。
そしてその習慣と反復という価値観の刷り込みは、それこそアリストテレスさんの時代から、効果があると実証されている。「嫌なめんどくさい習慣でも延々と繰り返せば段々それに慣れてくる」と。