何故「経済的合理性は戦争を抑止する」という思想が生まれたのか

あるいは、近代自由主義的見解の限界、のお話。


インスパイアされたのはいつものリアリズムと防衛ブログさんの所の記事である、
経済で戦争は防げるか――『The Costs of Conflict』 - リアリズムと防衛ブログより。

 本書「THE COSTS OF THE CONFLICT」で述べられているように、中国は台湾に侵攻すれば経済的なコストが多大な損害をうけます。アメリカと戦争になるであろう、ということも中国は認識しています。
 しかし中国にとって台湾の独立は自国の死につながるため、絶対に看過できません。よって、これまでの歴史上の国家がそうしたように、経済的損失も軍事的劣勢も看過して、生き残りのために戦争に賭けることは十分に考えられます。お金よりも命、経済より生き残りの方が大事だからです。

経済で戦争は防げるか――『The Costs of Conflict』 - リアリズムと防衛ブログ

相変わらず丁寧にまとまっていらっしゃいますので詳細はあちらへ。
さて置き、ではそもそも論として、何故「経済的コストによって戦争を抑止できる」という考え方が広まったのか? という点について以下適当に考えてみます日記。


まず前提として根本的な勘違いとしてあるのが、『「戦争は経済的コストに見合わない」からこそ戦争は起こらない』という論理展開なんですよね。そもそも前提条件の設定から間違っている。むしろ順番的には「戦争を無くす」という理想を達成する為に、後からその論理的補強の為に「戦争は経済的コストに見合わない」という理屈が後付として設定されたんです。
A=「戦争は経済的コストに見合わない」と、B=「戦争を無くす」とした場合に、『AであるからBである』なのではなくて『BのためにAを生み出した』という方がより正解に近い。


こうした思想の根本は、欧米流思想やアングロ・サクソン流思想の始祖であるホッブズやロックの哲学、に辿り着くわけでありまして。
つまり私たちの人間の持つ誇りや愛国心や自尊心などの経済的合理性からは語れないような価値(リアリズムと防衛ブログさんの所ではお金よりも大事な物である「生命」や「主権」と解されているもの)を巡って争うから人間は戦争状態から抜け出せないのだから、それらから脱却すべきである、という思想がその根本にあるんです。
人間は誇りとか愛国心とか気概とかそういうものに価値を置くのをやめてもっと「ブルジョワ*1」になるべきである、というロックらから始まる近代的自由主義思想。
勿論こうした思想はある程度までは正しく機能してきたし、そして現代においてもそれは未だ色褪せていない。しかしこうした思想が広まった世界において副作用のように同時に誤解されてしまったのが、「経済的合理性は戦争を抑止する」という誤解なんですよね。私たちは経済的合理性を共通認識としておいてしまった為に、ならば「戦争を無くす」為には「経済的合理性」を訴えさえすれば戦争が無くなるはずだと信じてしまった。
ほんとうはそれだけで戦争が起きていた訳ではなかったのに。


よく「欧米思想に染まっている」と批判する人が行き過ぎた自由主義や資本至上主義のデメリットを訴えたりしていますけど、まぁそれはそれで考え方の一つとしてありだとは思うんです。でも同じ人が同じ口で、何故かそれを批判するくせに「経済的合理性は戦争を抑止する」という考えた方には賛同してしまうんですよね。両者の理論は根本的に同じ思想によって生まれたはずなのに。合理性と経済性を第一に考える故に、その理屈からいけば戦争は不合理で不経済だから否定されると、その合理性と経済性の追求を批判していたくせに。
私たちはあまりにも強く自由主義(と資本主義)の思想に強く影響を受け、それが当たり前だと確信してしまっているからこそ、経済的合理性以外で戦争を語る習慣を遠ざけてしまった。そしてそれを時代遅れの考え方であると忘れてしまった。しかしだからといって現実の戦争の性質が変わるわけでは当然なかったわけで。悲しい事に、理論だけでは現実は変えられなかった。
私たちは日常生活においても経済的価値が全ての判断基準になるわけではない*2のと同様に、未だに経済的価値で計れないものの為に戦争をすることがあり得る。


まぁこんなことは昨日の日記でも触れた、ノーマン・エンジェルさんの「大いなる幻想」で証明されてしまった事実でもありますよね。私たちは普段から常識として経済的合理性に価値を置いているからこそ、どんな時でもそれが普遍的価値であると勘違いしてしまいがちである。
でもそんなものはやっぱり幻想でしかない、100年前にも証明されたように。

*1:ここでは、目先の自己保存や物質的利益を追求する「より」経済的な人間、の意。この反対にあるのが、貴族的な誇りや威信を重視する人々。

*2:例えば、郷土愛や個人の趣味嗜好や公共心を経済的価値よりも重視することがあるように。