私たちの愛した傲慢な「普遍的価値」

その是非についてはめんどくさいのでいつも通りスルーです。


米中首脳会談、国際問題での協調を確認 人権問題では相違 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News
http://www.asahi.com/international/update/0120/TKY201101200589.html

これに対し胡主席は、中国における人権は大きく進歩しているとしたうえで、広大な中国の国土には多様な社会が存在し経済発展の度合いも異なると述べ、米国からの人権批判を婉曲にかわした。また、基本的人権は世界共通の価値観であるとのオバマ大統領の認識は共有できないと語った。

 胡主席が自国の人権問題に言及するのは異例のことだ。

米中首脳会談、国際問題での協調を確認 人権問題では相違 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News

これもまた昔から非公式には言われてきたお話ではありますよね。しかし「公式に」ぶっちゃけてしまうのは大変異例なお話です。
で、これが価値観の衝突の例として珍しい事例なのかというとそうでもないわけで。
腐敗と公正さをわかつもの - maukitiの日記
それは以前の日記で書いた国際的組織等における、私たちの考える腐敗と公正、彼らの考える公正と腐敗への価値観の違い等々でもよく見られるお話でもあります。簡単にそれを定義しようとすると『「公式」と「非公式」の重視の差』でしょうか。
私たちは開かれた・公的な・形式的な「公式」の合意を重視していて、しかし彼らはそうではない「非公式」の合意を重視している。縁故だったり贈収賄だったりパワーだったり宗教だったり、公式以前には私たちにもあった非公式なものによる合意を。
以前のイラク戦争などでもアメリカがあれほどまでにその手続きや建前にこだわったのは伊達や酔狂ではないんですよね。それは勿論戦争のやりやすさという面もあったんだけれども、しかしより根本的にはそうしためんどくさい過程を経ることこそが普遍的な価値観に則っているいることを証明していたわけだから。究極的・物質的には必要性はないし意味もないんだけれども、それでもポーズとして見せる必要がある。


よく国際社会において、中国が一部後進国の盟主のような扱いをされていますけど、それってこうした面が大きいと思うんですよね。つまり私たち先進国社会の根底に共通してある諸秩序、民主主義や自由主義法治主義基本的人権、に従いたくないと考えている人びと。実際そうした考えの国家はそれなりに多くあって、勿論その多くは普段あからさまに表に出したりしないけども、しかし中国をはじめとして一定以上の数が現実に存在している。
私たちは一般にそうした諸秩序へ強い愛着、あるいは習慣化されている。まさに普遍的に価値のあるものとして。
でもそう思っていない人たちも確実に存在している。そんなものは「普遍的」でもなんでもないとして。
そんな私たちの価値観はかつての偉大な思想家たちによって正当化されている。ルソーだったり、ホッブズだったり、ロックだったり、ヘーゲルだったりによって。しかし彼らはそう考えてはいない。まさに「ならば一体彼ら自身の正当性を保証しているのは誰だ?」と。


そんな「公式」を重んじる私たちと、「非公式」を重視する彼らのお話。