自由ってなに?

他者危害の原則とかそういうお話ではなくて、いつものそもそも論。自由ってなに?


イデオロギーを内生化する - himaginary’s diary

経済学におけるイデオロギー側面を重視することは、以前紹介したダンカン・フォーリーの論考と共通しているが、ワルドマンの考察が面白いのは、そうしたイデオロギーの制約を外生的なものと考えるか、それとも自分たちの力で変えられる内生的なものと考えるか、という違いがさらに存在する、と論じている点である。彼に言わせれば、前者の考え方を取るのがオバマ政権(ないし民主党)で、後者の考え方を取ったのがジョージ・W・ブッシュ政権(ないし共和党)だという。

イデオロギーの制約を前提とすると、後者の行動はしばしば非合理的に見えるが、制約となるイデオロギー自体を変化させようとしていると考えれば必ずしもそうではない、と彼は指摘する。実際、米国の政治環境は一昔前に比べて右傾化してきたではないか、それは後者の戦略が当たったためと言えるのではないか、と彼は言う。

イデオロギーを内生化する - himaginary’s diary

すごく面白いお話です。経済学でもそうした議論があるんだなぁと目からウロコです。
で、この話とよく似た構造を思い出したのが、近代政治哲学における主要テーマでもあった人間の『自由』の定義について。


一般に『自由』の定義されるところは「外部からの制約要因の存在しないこと」とされている。故にかつての古典的自由主義においては、制約されない事を最重要視していたわけで。
しかしそうやっていけばいつか『自由』という状況が完全に・科学的に定義されるかというとそうではない。カントさんが昔その著書の中で語っていたように「人間の認識能力の限界以上のものを認識することはできない」んですよね。その意味で、確かに私たちが自由を阻害するものをどこまでも探求していった結果、いつかその原因となるものが無くなるかもしれない。けどそれは単にそれ以上深く人間には認識する事ができなくなったからではないか、という疑問を解消する事にはならない。原因が認識できなくなることと、原因が存在しないことを同列に語ることはできないから。

  • 例えば今僕が日記を書こうとした理由は、自己顕示欲や現実逃避や単なる暇つぶし、の人間の心理的作用として説明できるかもしれない。ならばその心理的作用が生まれるのは何処からかと考えた場合、それは人間の心理的な本能と説明される。人間の本能が存在する理由はまさにその「利己的な遺伝子」が存在するからであり、ならば遺伝子が自己保存と分裂を目指すのは何故か。そうした遺伝子を持つ物質が何故存在しているのか。どこまでもそれに先行する原因を追い求めていく事はできるが、しかしその悲しい努力の行き着く先は結局「私たちの宇宙(認識)の先に何があるのか?」でしかない。

私たちは相対的・経験的に『自由』を定義することはできる、あの時と比較して今この時は自由である・自由ではないと。しかしだからといってその自由を絶対評価で判断することは不可能であるし、それはつまり根本的な『真の自由』など存在しないからである。と、社会学の先生なら仰るでしょう。


さて置き、そうした完全な『自由』の定義を諦めてしまった私たちは、他の方法によって人間の自由を定義しようとする。
それまで私たちは自由について「因果性のないこと」を証明手段としてやってきた。しかしヘーゲルという人はそれに対して、人間の自由とは「因果性が存在した上で、『自由』な選択をすることができる」と定義した。つまり私たちが何らかの外部的作用によってその選択肢が制約されている状況、例えば周囲の状況や人間の本能や法則、などがあっても尚自らの考える選択をすることができる。これまでの物質的・形式的な形而下での自由ではなく、私たち人間はむしろ精神的な形而上において真に自由ではないのかと。


ということで最初の話に戻って、上記の「イデオロギー」を「自由」に置き換えてもすんなり理解できますよね。イデオロギーを内心の嗜好偏向や制約とした場合の、いわゆる内心の自由について。一方はそれを外生的と捉え、しかし一方は自分たちの力で変えられる内生的なものとして捉えている。いつかの『自由』の探究のように。
そんな視点を経済上のテーマにまで射程を延長するのはすごいなぁと素直に思います。オチなし。