現代思想家稼業の悲哀

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5327
まぁ言いたいことは解らなくはない。以下適当に考えたお話。

  • 僕のようなくだらない日記を書いてても思うんですけど、大抵の場合、それってもう誰かが既に言っていることでもあるんですよね。だからしばしばうちの日記では歴史ネタに逃げがちでもあるんですが。もうそれは「○○が何十年前に通り過ぎた場所である」と。そしてその発見は以前の時代よりもずっと簡単になっている。
    • ある意味で、こうした「すぐに他人の成果が見渡せる」という状況こそが、どこまでも思考の深遠へと至るべく穴掘りへのモチベーションが維持できないという状況もあるんじゃないかと思うわけであります。これまでなかった場所にこれまでなかったような深い穴を掘ってやろうと意気込んでみたら、周りには同じような事をやっている(いた)人が既に沢山居る。見えすぎてしまう不幸。かつての時代は逆に周囲が暗かったからこそ、どこまでも無心に思考の深遠まで辿り着けたんじゃないのかなと。
    • つまるところ、能力の差異などではなくて、現代の技術発展の環境こそが偉大な思想家を殺してしまったのではないか。
  • 世界が昨日の続きでしかないから。
    • 近代の偉大な思想家たちって、やっぱり現代に生きる私たちの思想の土台となっているのは事実なんですよね。それは人間観も国家観も世界観などなども。で、それが近世・中世にまで遡るとやっぱりどこか別の時代の人間という感じしかしない。現代世界の根底にある、主権国家体制や国民国家や民主主義や人間そのものについて、それらから先へ進むアイディアは幾らかは出てきているものの、その潮流はまだ決定的にはなっていない。国際連合欧州連合民主化運動とかネット社会とか。
    • つまり、私たちは未だ「ポストモダン」というモダンの続きで生きている。
  • ググレカス」の先にあるもの*1
    • 上記二点とも関連しているんだけども、インターネット社会はそうした旧態の思想家を殺し、また同時に決定的な時代変化をももたらすものじゃないのかと思うんですよね。昔から言われるようにインターネットの発明は、文字や活版印刷の発明と同等かそれ以上の社会変革をもたらすのではないかと。
    • もしかしたら数十年後、「ネット黎明期の偉大な思想家たち」という特集が組まれるかもしれない。


あとはまぁ大抵の場合、偉大な思想家って難しすぎ・先へ進み過ぎてて「大抵の人には何言っているか解らない」のが常なので、単純に同じ時代に生きている人たちには理解が足りていないというだけ、という説もあります。
そう考えると、今ネットで電波飛ばしまくってる人もいつか将来「偉大な思想家」と形容されるかもしれない。そうするとそんな電波な人に対して私たちって大抵「うわぁアイツすごい電波(笑)」とか言ってるので、かつての偉人たちに対する一般人な反応を思い出してちょっと歴史の皮肉を感じますよね。