「ヒャッハー! これこそが(相手を攻撃する)『自由』だー!」

まぁ当時から一部では言われてはいたものの、しかし実際に起こってしまうと気の抜けるお話ではあります。


カイロでコプト教徒とイスラム教徒が衝突、13人死亡 エジプト 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News

 エジプトでは4日、カイロ郊外のヘルワン(Helwan)でコプト教徒とイスラム教徒が衝突し、コプト教の教会が放火され2人が死亡する事件が起きており、これに抗議するコプト教徒1000人あまりが8日午後、ゴミ収集を生活の糧としているコプト教徒が多く住むカイロ市内の貧困地区モッカタム(Moqattam)に集結した。そこに、イスラム教の一団が押し寄せ、コプト教徒との衝突が起きた。

カイロでコプト教徒とイスラム教徒が衝突、13人死亡 エジプト 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News

うん、まぁ、悲しいお話です。けど別にそれって珍しい話ではないし、ていうかむしろ散々復興中のイラクやあるいは少し前のキルギスなんかでも見られた光景ですよね。独裁政権を倒したあとにやってくる宗教対立や民族対立。私たちが反射的に賛美してしまう『民主化』や『自由』ってつまり相手を攻撃する自由も内包されていたと。
革命の成果が「宗教対立の自由」だった、なんて悲しすぎます。でも少なからずそれは事実ではあると。


以前のうちの日記でもこんなこと書いてました。

そんな風に見ると、キルギスの一連の出来事は歴史上幾つもあった「失敗する(おそれのある)歴史の縮図」なんだと思うんです。

例えば、かつて大国の裏庭にあった国たち、ソ連にとっての中央アジアや、アメリカにとっての中南米や、ヨーロッパにとっての東欧や北アフリカなどにおいて、多くの場合において彼らはそんな大国の影響力によって安定した「偽りの平和」を享受してきた。
しかしそんな大国たちの影響力が無くなったり(衰退するかあるいは単純に興味が無くなったり)、または単純に独裁制の維持が危うくなると、当然それまでの偽りの平和による安定は破られてしまう。それを一般に私たちは、そんな不当な支配からの脱却は良い事である、と言うわけだ。
だけどそんな偽りの平和の下に隠されているのは希望だけじゃない。むしろより深い絶望も一緒だったりする。民族や宗教や貧富の対立も一緒に浮かび上がってきてしまう。だから運が悪いとドロドロの内戦にまで発展する。

そしてまぁ普通、単なる戦争よりも身内の争いである内戦は、よりさらに非常にロクでもない事になってしまうと。

キルギスに見る「歴史上のよくある不幸」 - maukitiの日記

まぁそれも仕方のないお話ではありますよね。善悪の問題でさえない。
つまるところ、宗教にしろ民族にしろ、それまでの自由のない独裁政権下では彼らのそうした個性は権力の名の下に抑圧されてきた。一般に彼らは弱者であり、故にそうしたアイデンティティを積極的に表明する機会を奪われてきた。そんな長年に渡り抑圧されてきた人びとが、もし仮に今後それを自由に解禁しても良いんだよ、といわれた時に一体どういう行動に走るだろうか?
それはもう彼らは大喜びで、自らの存在を証明しようとする。
普段からその自由を認められている私たちにとっては既にもう見慣れ磨耗してしまった感覚ではあるんだけど、しかし彼らにとってはそうではない。『空腹は最高のソースである』のだから。故に彼らはより一層その喜びを強く表明する。最初のAFPの記事では「抗議デモ」なんて書いてあるけど、でも本質的にいえば、それって彼らの喜びでもあるんですよね。それが単純に怒りだったのならまだ問題の解決は簡単だったのに。


こうして長年の抑圧*1から解放された(かもしれない)エジプトのコプト教徒たちは喜び勇んで街に繰り出す。でも当然そんな強力な表明は周囲との摩擦を引き起こさずにはいられない。
しかし、だからといって誰がそんな彼らの(抗議デモなんかではなく)『喜び』を止めることができるだろうか?