非常時におけるDHMO問題についてのマジレスを考える日記

ということでドモホルンリンクル、じゃない「DHMO」のお話。
まとめよう、あつまろう - Togetter
まとめよう、あつまろう - Togetter
えーまぁ有名なお話ではありますよね。実際googleさんに聞けば一番上に出てくるwikipediaにも載ってるくらいだし。
DHMO - Wikipedia


さて置き、これが不謹慎だという意見について。
実際こうした発言を、例えば現実に被災地に居るお年寄りに向かって直接「おじいちゃん知ってる? 水道水からDHMOが検出されたらしいよ」と言うことについてだとしたら、おそらく、ほとんど100%全ての人が同意すると思うんです。例えこの発言を(私も含め)ネット上で笑って許容している人たちでさえ、そうした使用方法について否定するでしょう。
でも今回の例ってそうではありませんよね。少なくともtwitterという手段を利用できている以上、幾らでも、例えそれが何か知らない人であったとしても、自分で調べることができるんだから。勿論そうした発言を真に受けて、二次拡散的に上記のような孤立する被災者達に伝わる事を懸念することはできるけども、しかしそこまで言い出したらほとんど何もできなくなってしまう。
今回の地震の他の事例でいえば、「品不足だ」と言うことや商品が売り切れてガラガラの商品棚の写真をアップロードすることについてまで「パニックを煽っている」「不謹慎だ」と言う人はあまり居ない。「物資が爆発的に売れてる」という情報だけで、私たちは幾らでも買いだめというパニックを起こしてしまう現状であるにも関わらず。だけどそれを「悪いのは、物が売れている、と書いた人だ」などとは絶対に同意できない。
だから今回の例で、不謹慎という意見は少し違うと思うんですよね。


このような状況に近いものを考えるとすれば、(危険性のある商品についての)「販売者責任を問われている」という構図だと思うんです。争点は「その(販売に際しての)配慮が適切なものであったかどうか」という点。例えば銃や薬物やゾーニングの必要なもの全般。*1
で、その点で言えば最初に「水道水からDHMOが検出」という発言をした人について、ネット上でやったのみであるならば、という理由から多少なりとも担保されたものであると判断しても良いと思うんですよね。だってそれを見れる人は少なくとも自力で検索できる能力があるということなんだから。
上記例で挙げたような、被災して情報的に孤立した人びと、にそれをするならばともかく。


さて置き、こうした発言への不謹慎だという感情は、つまるところパターナリズムに行き着くわけでありまして。
といっても勿論そうした感情を持つこと自体は非難できるものではない。でも、そうした感情の裏にあるものをぶっちゃければ、「その発言に騙されるバカが居る以上言うべきではない」という所に行き着くわけであります。それを『個人』でそれを言うならば別にいいんです。そう思うだけならばその人の勝手なんだから。「世の中にはバカが居るんだから、選ばれた人物による選ばれた情報のみ流通すべきだ」と思ったって別にいいんです。それが個人的な活動であるならば。
でももし、そうしたパターナリズムが権力や権威と結びつくと途端に最悪の事態に直結すると言うことは忘れてはいけないと思います。それは歴史に残る程の最悪の結果*2を生み出した反知性主義であり、まさにオーウェルの『1984』の世界そのものであるから。
それは国民は知る必要がない情報であり、何が必要なのかは権力者が決めるのだ、というパターナリズムの極致。


最後に、この議論において個人の『表現の自由』というものを持ち出すのは、通常の場合、あまり筋がよろしくない。だってそれは上記に書いたように結局の所個人と個人の争いでしかないのだから。でも相手がそれを何らかの権力や権威を利用しようとした場合は、敢えてそれを持ち出すべきでしょう。だってそれはまさに「権力・権威を持って相手の言論を封殺する」という行為に抵抗する為に生まれた『表現の自由』の存在意義そのものなんだから。
その意味で、幾ら個人的に「非常時に微妙なジョークはよくない」と主張する事は自由であったとしても、発言者の学校や会社の所属先探し出して(つまりその権力と権威を利用して)相手の言論を封殺しようとした行為については、正直まったく擁護のしようがない。それは事実上100:0で負ける勝負です。

*1:ちなみに人間の歴史において、その全期間古今東西全ての時代で最も危険性の高い商品が何だったかといえば、それはずっと「情報」であるとも言えるんですよね。

*2:それは中国共産党大躍進政策文化大革命、あるいはクメール・ルージュのポルポト派が証明したように。