アメリカがコソボ紛争から学んだもう一つの教訓

一昨日の日記の続き的なお話。アメリカが微妙にしかやる気を出していない理由と、そしてそれしか出さない理由について。


オバマ米大統領、リビア空爆の成果を強調 カダフィ大佐追放には消極姿勢 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News
/ WSJ日本版 - jp.WSJ.com - Wsj.com
ということで、なんというかまぁ毒にも薬にもならないオバマさんのお話ですけども、しかしそれも仕方ないとは思うんですよね。つまりNATOの行動に対してのアメリカの中途半端な煮え切らない態度、積極的に肯定も否定もしないこと、こそがアメリカがあの一連のユーゴスラビア紛争への軍事介入から学んだ教訓でもあるから。


その一つがよく批判される、ブッシュ前大統領の時代のアフガニスタンイラクと続いた、単独行動主義と言われるような「必要となれば単独でさえも行動する」という決意なわけであります。いざという時にコソボ紛争の時のような「法律問題*1」によって味方に足を引っ張られる位なら自分たちのみでやってやろう、という覚悟。


そして、そうした教訓の表裏のもう一方にあるのが、そうしたことに足を引っ張られる位なら「初めから深く関与するのはやめよう」という教訓でもあるんですよね。それは実際の所同じ教訓の表と裏でもあります。必要ならやるし、必要でないなら見ているだけにしよう、と。
だから以前のブッシュさんのそれと同様に、オバマさんの態度はそうした教訓からすればまさに正しい態度といえないこともない。結局の所、あのNATOの共同作戦はヨーロッパ側もアメリカ側もどちらも不満に抱く結末しか見出せなかったから。ヨーロッパはアメリカ側の効率優先の態度が気に食わなかったし、アメリカ主導と見られるのも気に食わなかった。アメリカはアメリカで、何もしないくせに口だけは出してくるヨーロッパが気に食わなかったし、結局アメリカが悪者に仕立て上げられてしまうのも嫌だった。


その当時にNATO最高司令官だったウェズリー・クラーク*2コソボ紛争の回想録である自著『Waging Modern War』の中でこんな風に語っています。

「われわれは作戦の効率を犠牲にして、NATO加盟諸国が政治的、法的に許容できる範囲に作戦の性格を限定せざるをえなかった」

戦争の数ヶ月後に開かれたNATO防相会議で、出席したある国の国防相からの発言として、コソボでの戦争から得られた最大の教訓は、
「同じことをもう一度繰り返したいとは誰も望んでいない点だ」*3

そんな過去の教訓を考えると、前述のオバマさんの毒にも薬にもならない発言や、そして現在のリビア空爆に関して一貫してアメリカがやる気ないのも仕方ないよなぁと、暖かい気持ちで見守りたくなりますよね。

*1:軍事的なドクトリンを優先するアメリカに対しての、ヨーロッパ側が主張した政治的・法的に許容できる範囲内に収めようとする動き

*2:Wesley Clark - Wikipedia

*3:どちらも日本語訳は『ネオコンの論理』(ロバート・ケーガン著)から引用