まだまだ「小数の法則」から抜け出せない私たち

決して合理的に振る舞いきれない私たちのお話。


0.02%の嘘
面白いお話というか、めんどくさいお話というか、あるいはあまり意味のないお話というべきか。

たとえば、喫煙はガンのリスクを倍にするといわれている。公衆衛生という観点から言えばとても無視できる数字じゃない。でも、それを知っていてもたばこを吸う人はいる。飛行機が墜落する確率は自動車事故に会う確率に比べれば無視できるほど小さいけれど、それでも飛行機での移動を避ける人はいる。両者を笑うのは簡単だけれど、それは何も解決しない。

でも、どこかに線を引かなくちゃいけない。たとえば100mSvの1/100。1mSv、0.005%、10万人のうちの5人。その程度なら放射線の影響で致死性のガンにかかるリスクは無視できるだろうか。それぐらいなら、大丈夫だといっていいだろうか...

そして僕は小さな嘘をつく。0.02%の嘘を。

0.02%の嘘

まぁぶっちゃけてしまえば、少なくとも現時点ではまだ「言葉のみで『安心』させるのは無理です」という位しか言うことはできないですよね。
あの震災から一月以上経ってかなり沈静化してきたとはいえ、今でもマスコミ等によるニュースにはその話題が一番多いのは間違いないわけで。その状況下において、合理的あるいは論理的に証明されたことをそのまま受け入れられるかというと、そんなことは当然ない。「非常時」において私たち人間が常に冷静で合理的な行動がとれるという保証はまったくない。どんなに言葉を重ねても相手は聞く態勢にないのだから、ほとんど意味がない。
であるからこそ行動経済学には『小数の法則*1』なんて言葉が存在しているわけで。
つまるところ、私たちは一度衝撃的な重大事故に直面すると、その可能性が相変わらず小さいにもかかわらず大数の法則が当てはまると錯覚してしまう。。従来あったはずの安全率の実績を根拠とする(例えば原子力は石炭と較べてその事故による死者は少ない等の)主張などはまったく無意味になる。
「そんなこと言ったってひどい事故は起きたじゃないか」と。ええ、まさにその通りです。
年間通じて一日一人ずつ死ぬよりも、一年に一回同時に100人死ぬ方が与えるショックは大きいのだから。感情は論理を超越する。


結局の所、こうした状況下においては、一方が幾ら合理的・論理的に振る舞った所であんまり意味がない。私たちが常に冷静で理性的であるなんてことは当然なくて、そんなもの幻想でしかない。
私たちは一般に平時においてさえも、しばしば、錯誤や錯覚に陥っている。いわんや非常時をや。


その辺の割りきりができないと、上記のような「0.02%の嘘」なんかに悩んでしまうんじゃないかと思います。「その相手に話しても無駄だ」とまでは言いませんけど、「話すべきタイミングがある」辺りなら多くの人が同意するでしょうし。まぁそれが5年後か10年後かになるかは解りませんけど。

*1:この場合統計学および確率論における「ポアソン分布」とは別物。ポアソン分布 - Wikipedia