最早それは「宗教的差別」ですらない

欧州さんちの宗教的な行為に対する狭量さについて。無関心の極致にあるもの。あるいはリアルキュゥべえさんたち。


「動物の宗教的な食肉処理」禁じる法案、オランダ下院が可決| 世界のこぼれ話| Reuters
オランダで家畜処分を禁ずるユダヤ差別再び | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
この日記でもブルカ禁止とかのニュース以来、色々適当なことを言ったり考えたりしてきましたけど、ようやく何となく角度見えてきたような気がします。これまで僕が書いてきたわ言は忘れてください。
つまるところ、これって迫害や排外ですらなく、『無関心』の極致にある行為なんじゃないかと。以下試論。


彼らは別にユダヤ教イスラム教への攻撃としてそうしているわけではないんです。
もちろん所謂「極右」な一部の人からすれば違うんでしょうけど、しかしその大多数は、ただ単純に、そんな「宗教的行為」に価値や意味などないと思っているに過ぎない。だから彼らはネガティブな感情からではなく、むしろ(動物愛護という)善意の発露として、そのポジションに立っている。
別に彼らが大事にしているものだから攻撃してダメージを与えてやろう、とかそういうレベルでさえないんです。
それは無意味で無価値なものだからと(何かの邪魔になるのであれば)片付けてしまおう、と粛々と進めているに過ぎない。
昔から言われていますよね「好きの反対は無関心である」と。彼らはまさにそれを正しく体現している。


なのでよくアメリカでもヨーロッパと同じ様に「宗教差別」が議論として取り上げられたりしますけど、けどアメリカとヨーロッパって両者って同じことを話しているようで、実は正確には違うものについて語っているわけです。
同レベルでなければケンカにならない - maukitiの日記
上記日記でも書きましたけど、そのキリスト教的な価値観をしばしば押し出す宗教国家なアメリカって、だからこそ逆説的に、「宗教的行為」の価値を相手にも認めることを重視しているんです。合衆国憲法修正第1条。それをアメリカ合衆国憲法の中でも一番最初に置いているのは伊達ではない。


一体両者のうちどちらの方がマシなんでしょうね?
一方は、「自分がされて嫌なことは相手にしてはならない」という教訓を信じ、そしてそれを逆の意味でも正しく利用している。その教えは表裏一体なんです。「自分がされて嫌なことは相手もきっと嫌だろう」と。
そしてもう一方は、「(全く無関心である故に)完全に中立的である」というポジションに立っている。そしてそれはつまり究極的な無価値に繋がるわけでもあります。しかし彼らは中立であるが故に、根本的にはその価値を理解できない。その行為に意味などないのだと。



故に今回のオランダの「動物の宗教的な食肉処理」は、だから差別なんかでも迫害なんかでも排外主義なんかでもないと思うんですよね。世界でも有数な『無宗教国家』オランダだからこそ*1。それは単に宗教的行為全般に意味を見出していないだけなのだと。
みなさんはいかがお考えでしょうか?





さて置き、まぁそんな彼らの『動物愛護』の方法だって、私たち日本人からすればやっぱり『(広義の)宗教*2』なんですけどね。
その意味で、そんな『動物愛護』を世界的・普遍的な真理であるとばかりに行動している彼らは、端から見ると世界宗教を本気で目指していたかつての愚行を思い出してしまうんですけど、きっと多分彼らは気付いていないんでしょう。そう見ると、何百年たっても人間そうそう変わらないなぁ、とほっこりした気持ちになってしまいます。

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*2:広義の宗教と狭義の宗教については、2011-05-31 - maukitiの日記を参照。