この余白はそれを書くには狭すぎる

1859年*1のあの瞬間からもう150年以上続くめんどくさい口論。進化論と創造論の対立。なお話。


聖書は正しく、進化論は間違い-クリスチャンは堂々と説明できるべき : 宣教 : クリスチャントゥデイ
痛いニュース(ノ∀`) : 埼玉医科大准教授 「聖書は正しく、進化論は間違い。日本人は騙されている」 - ライブドアブログ
左様で御座いますか。がんばってください。

 人体の形成について、すべては初めから神様の御心によって創造されたと考えるべきで、これをもし進化論に即して考えれるとすれば、「もし段階的に代謝能力を獲得してきたのなら、片っぱしから乳児期に死亡する時代、全員重度知的障害者だった時代などが生じたはずであるが、そのような時代があり得ないことから、『人体の組織は最初から全部できたと思われる』」と確信したという。同氏によると、人体の組織は観察すればするほど、「段階的に進化してきたとは考えられず、最初から全部できなければならないことばかり」であるという。

聖書は正しく、進化論は間違い-クリスチャンは堂々と説明できるべき : 宣教 : クリスチャントゥデイ

何でわざわざキリスト教内部でのこの人の発言が取り上げられているのかその辺の経緯がよく解りません。なので個人的には別にほっとけばいいじゃないのポジションです。
ともあれこれだけじゃ寂しいよね。そんな駄文ならわざわざ書く意味もない。ということでこの日記では「進化論と創造論の論争点」を語るには狭すぎますけど、でもフェルマーさんのように諦めるんじゃなくてさわりだけでも適当に書きます。むしろあの人の場合は嫌がらせか。


さて置き、もう誰がどんな意味で始めたのか、その原点も解らなくなってしまっている位長く続く進化論対創造論の議論。
しかし、そもそも論で言えば、『進化』は厳密な意味での創造論の扱うべき議論ではないんです。つまりキリスト教における創造論とは、世界(宇宙)と神の関係性の問題*2であって、世界内に限定された(人間の)変化や法則性の問題ではないわけです。だから『進化論』が射程とする問題と『創造論』が射程とする問題は、厳密には違うものであるんです。
「宇宙は何故生れたのか?」と「人間はどうやって進化したのか?」は全く別問題ですよね。もし「宇宙が生まれた理由」を「人間の進化の過程」で説明しようとしても上手くいくはずがないんです。そして逆もまた然りであると。当たり前ですよね。
そんな風に本来次元の違う問題なのに、何故かそれを一緒くたにして議論をしてしまう。
だから実はこの議論の裏にあるものとは、進化論の解釈問題と、創造論の解釈問題であるわけです。なんというかめんどくさいお話です。まぁそれだけダーウィンさんの主張が刺激の強い画期的なものだったということの証左でもあるんでしょうけど。キリスト教の内部的にも、だからといって当然のように誰もがこうしたこの不毛な議論に参加したのかというとそうでもないわけで。これまで少なくない人びとが進化論と創造論の両立を(正しく)目指してきたりもしたんです*3
なので上記この人をして、キリスト教全体がバカである、というのはあまりフェアではない。
結局の所、私たちの身の回りにも少なくない数のアレな人が居るように、当然キリスト教信者の中にもそういう人が居る、ということでしかないと私は思うわけです。


故に私を含め多くの人が現実でアレな人に採る対応のように、彼には「左様で御座いますか。がんばってください」以外に掛ける言葉はほとんどない。

*1:種の起源 - Wikipedia

*2:ここから更に厳密に分類すれば「根源的創造」「継続的創造」「創造を完成させる創造」がある。

*3:例えばパウル・ティリッヒ - Wikipediaユルゲン・モルトマン - Wikipedia