デラシネな人びと

ロンドンの暴動見たときすぐに連想したもののあまりにベタ過ぎるのでどっかで書かれるだろうと思いスルーしてたんだけど、見かけないので適当なお話を少し書きます。デラシネ=根無し草な人びとのお話。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/18882

国や自分の将来に対して、ほとんど関心を持たない若者の集団が、現在の英国に存在しているのは明らかだ。ほとんどの若者たちを暴動から隔てている壁――善悪の区別、将来の仕事や教育に対する関心、羞恥心といったもの――が、暴徒たちには備わっていないようなのだ。

 英国は、一体なぜこうなったのかを知る努力をする必要がある。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/18882

本来ならば自らの身近なコミュニティであるはずの地域で暴動に走る(主に低所得者層の)人たちは、社会の中にありながらしかし根本的に『根無し草』であると。
これってオリヴィエ・ロワ*1さんが仰っていた「民主国家の中で生きながら過激派イスラムに走る若者」と同じ構図じゃないかと思うんですよね。もしそこにイスラム教という宗教の要素がない場合、今回のような事件へと至るんじゃないかなぁと。
つまり、彼らのこうした状況を招いてしまっているのは文化や宗教や人種などではなく、民主国家にありながら彼らが無視されていると感じている所にこそ、真の絶望がある。


その意味で、確かにイギリスの人びとはある種の『モラルハザード』に直面しているんでしょう。彼らは経済的な弱者に対して、ただ補助金などの社会保障を与えれば解決すると信じていたものの、しかしそれでは人びとの溝を完全に埋めることはできなかった。
そうした社会保障がまったく無駄だったというわけでは勿論なくて、そして逆効果だったわけでも勿論なくて、ただそれ「だけ」じゃ足りなかったのだと。


やっぱり今回のロンドンのお話もかなりの部分まで、以前も書いた「適切な多文化社会の管理」の方法が問われているのだと思うんですよね。
多文化主義の先にあるもの - maukitiの日記
手厚い社会保障だけでなく、如何にして彼らを社会に溶け込ませるか、という事を考えなくてはいけない。そうしなければいつまで経っても彼らは社会から疎外されていると感じ続けてしまう。社会の中にありながらデラシネであり続けてしまう。


しかしそうはいっても進んだ民主国家に生きる私たちであるからこそ(特にイギリスの人なんかは)、そうした「社会に溶け込ませる」ことを推進するのに二の足を踏んでしまうわけです。
だってそれは「同化政策」や「寛容と不寛容」という問題と紙一重過ぎるから。下手にその問題に踏み込んで藪から蛇を出す位なら何もしない方がマシだ、と考えてしまうのも理解できない話ではありませんよね。
しかしもうそんなことは言ってられなくなったんです。「これまであった多文化主義は死んだ」なんて言われているように。どうにかしてその妥協点を見出さなくてはならなくなってしまった。民主社会の基盤にある信頼や寛容を傷つけることなく、彼らに如何にして社会との一体感を抱かせるか。まぁ僕なんかにはとても思いつきません。偉い人がんばってください。


ともあれ、今回まで続くイギリスさんちの暴動騒ぎってそういう話だと個人的には思うんです。皆さんはいかがお考えでしょうか?

*1:フランスのイスラム研究の第一人者Olivier Roy (professor) - Wikipedia