奪われるのではなく、譲り渡していく私たち

なにやらすごい盛り上がってたスマートフォン向けアプリのお話。『カレログ』ってまぁネーミングの勝利ですよね。


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痛いニュース(ノ∀`) : 彼氏の位置・電池残量・通話記録がわかる恋愛支援アプリ「カレログ」登場 - ライブドアブログ
ひろみちゅ先生による「カレログ」の違法性検証 - Togetter
従来からあるGPSサービスなどを上手く組み合わせてパッケージ化して煽り文句と共に売り出す、正しいマーケティングの手法ではありますよね。批判を筆頭にして色々反響が飛び交っておりましたけど、特に面白かったのは『見えない道場本舗』さんちのこの部分でした。

※「となりのビッグブラザー」とは?
当道場本舗の造語です。
(1)技術が進歩しまくり、
(2)そして普及しまくることで、
(3)「フツーの人」にかつては権力機関や専門家など少数の人しかできなかったことができるようになり、
(4)その一方で、そういう少数限定の時には可能であった歯止めやブレーキがなくなってしまう・・・
という、諸々の社会現象のことをそう読んでいます。

「となりのビッグブラザー」は遂にここまで来た…「アプリで彼氏の位置や通話記録を保存しまーす」 - QUIET & COLORFUL PLACE- AT I, D.

「となりのビッグブラザー」ですって、面白いこと仰いますなぁ。確かにその例えはすごい解りやすいですよね。「私たちはかつてのように監視されるだけなく、むしろ積極的に監視をしていくのだ」と。ここだけ見れば正しい民主主義的手法な気がしますけど、しかしその技術進歩による監視能力が真っ当な目的のみに使われるなんてことは(かつての独裁的な政治権力と同様に)当然なかったわけで。


つまるところ、こうした「となりのビッグブラザー」な状況が間接的に説明しているのは、現在の私たちは自ら持つ『権利』を奪われる可能性よりも、自ら進んで放棄・譲渡してしまう危険性の方がずっと高い、という構図なんですよね。
もし今回と同じことが例えば行政組織や大企業によって為されたら、それはもうものすごい批判の嵐となるでしょう。しかし私たちが自発的にそれをお互いにやる分には、ほとんど何の障害もなく受け入れられてしまうわけです。そんなある種の自殺を止めるための規制などあるはずもないし、そして説得もできない。自発的行為である限り、私たちはほとんど止める術を持たない。相対主義と自由の名の下に生きる私たち。


かつては暴虐な政府によって『奪われる』ことこそを恐れなければいけなかったそうした諸権利は、しかし現代世界(特に自由な先進民主主義国家)で生きる私たちにとってはずっと『譲り渡す』可能性の方が高くなっているんですよね。それはあくまで自発的に、という体裁を保って。
その意味で「政府対市民」という対立構造こそを絶対的な前提条件としてやってきた左派な市民運動の多くが衰退していったのも、ある種の必然の結果なのかなぁと思うわけです。これまでも何度か「言論の自由」のお話*1とかで書いてきましたけど、最近の『人権擁護』の論争ではしばしば、本来的な『権利擁護』の意味である「政府対市民」という対立構図にはならずに、お互いのそれぞれの自由を掛けた「市民対市民」という不毛な対立構造ばかりなのだから。


よく引用される箴言として『地獄への道は善意で舗装されている』なんてものがありますけど、まさにそういうことだと思うんですよね。あるいは童話のように、北風に対しては頑として手放そうとしなかったものを、太陽に対してはあっさりと手放してしまう。私たちは大抵良かれと思って、自発的にそれを手放してしまう。結果的にはそれが手元から無くなるという点においてはどちらも違いはないはずなのに。
私たちはあの「ビッグブラザー」が遠くに霞むようになったと安心していたら、いつのまにか「となりのビッグブラザー」がすぐとなりにまで来ていた。なんか二重表現っぽい。