持たざる者の強さ

まぁ(成功して)革命だの(失敗して)暴動だの、大抵そんなものではありますよね。


試合後の暴動は「合理的」:行動経済学の分析|WIRED.jp
言われてみればものすごく納得してしまうお話ではあるかなぁと。
つまり、彼らはそれまでに続いたあの一連のエジプト騒乱において既にあった自分自身のアイデンティティが弱体化していた結果、『サッカーファン』という本来一時的なものであったはずの彼らのアイデンティティ・ペルソナこそが彼らの行動原理を決める際に支配的になってしまったと。弱っているときに口説かれるとコロッといってしまう的なお話。
その悲劇的な構図としては、あのロンドン暴動と近いところにあるのでしょうか。あるいは、学校生活でイジめられて自殺するまでに思い悩んでしまう子供たち、とか。普通の大人であったならば幾つもの社会的役割がある故に分散され緩和されるはずの圧力が、しかし彼らにとって限られた社会内部でのアイデンティティのみがその全てとなってしまう構図。かくして、そこでのみの一時の感情が、他の全て行動原理を凌駕してしまう。
こうしたお話について、僕としては行動経済学というだけでなく、クーリー先生*1とミード先生*2の『役割論』のような伝統的な社会学にも近いお話じゃないかと思います。

ここで、エジプトの事件を振り返ってみよう。かの国では、不安で不確実な社会情勢が、多くの若者から仕事や学業、安全に関するアイデンティティを奪い去っている。アイデンティティが失われた後には大きなギャップがあり、そこを「サッカーファン」というアイデンティティが埋め尽くしたのだ。

おそらくは、弱いホームチームの「アル・マスリ」が、ライバルの「アル・アハリ」を下したとき、彼らの中には「サッカーファン」に拮抗してその暴走を食い止めるだけのアイデンティティがほかに存在しなかったのだろう。

試合後の暴動は「合理的」:行動経済学の分析|WIRED.jp

現代に生きる私たちは常に「自分で何者であるか」ということを定義しながら生きているわけです。
それは例えば「○○の社員」や「○○という職業人」や「○○の学生」、「○○の父親・母親」や「○○の子供」や「○○のパートナー・恋人・友人」、もっと本質的な「男・女・それ以外」等々、自分が持つ固有の名前以外の、他者(社会)との関係性における自らのポジションについての定義。それはどれか一つだけでは当然なくて、ほとんどの人が複数個備えながら、意識無意識問わずそれを切り替えながら生きているのです。サラリーマンである男と、夫である男と、父である男と、古くからの友人としての男。その役割はそれぞれ全く別でありながら、しかしやっぱり同一人物でもあるのです。
そして私たちはこうした自ら役割(アイデンティティ)を定義しているだけではなくて、同時にまた、その役割に応じた『あるべき姿』をも同時に定義しています。教師ならば、政治家ならば、医師ならば、父ならば、息子ならば、こう振舞うべきであると。私たちはそれをほとんど無意識に――自らの意思だと認識するレベルで――それを自発的に決定しているのです。社会は、私たちが何者かであるかを決定し、ひいては私たちが何をするかを決定している。社会コワイ。
バーガー先生*3はこのような構図を『社会学への招待』の中で、類型化された期待に対する類型化された反応である、と定義しています*4。世界をひとつの演劇として捉えたとき、社会はその台本を提供し、そして私たちはその台本に沿って演じている役者に過ぎないのだと。それは是非の問題ですらなく、社会という巨大な構造を安定的に運用していく効率的なやり方だからこそ。つまり「この台本の提供する役回りを演じている限り、社会劇は計画通り進行しうるのである*5」と。
かくして多くのたちは、時に台本同士が矛盾したりする中でも、ある種の葛藤を抱えながらその役割を演じているのでした。だってそれが最も波風立たないやり方だから。
結果として、私たちがそんな『一般化された他者』から受けとる現代人としてのあるべき姿は、概ね常識として普遍化していく。


さて置き、話は最初に戻って上記サッカーファンのお話。行動経済学としても、そして社会学における役割理論としても、まぁつまりそういうことではあるんでしょう。
それなりに法と秩序が支配する現代世界に生きている人間であれば、何か一つの状況において、多少頭に血が上ったところでいきなり「ヒャッハー! 種籾をうばえー!」とはならないわけです。そりゃそうですよね。だってそれ以外にも家族や仕事や地域などでの立場ってモノがあるんだから。一時の感情に身を任せたところで「それ以外の場所で」不利益を被るのは目に見ているのです。故に私たちは、合理的な計算として、軽率な行動を慎む。
しかしもしそれ以外に何もなかったとしたら、その合理的な計算の前提条件は根底から崩れ去ってしまいます。
サッカーファンであれば、負けた腹いせに暴れまくったとしても、その役割が要請するポジションとしてはむしろ正しいとさえ言えてしまうわけです。何しろ愛すべきチームが負けた際の怒りの大きさは、逆説的にその愛情の深さの証明でもあるわけだから。故に熱狂的なファンであればあるほど、チームが負けたときに暴れるのは正しい役割を果たしていて、つまり合理的な選択とさえ言えるのです。
本来、サッカーファンという天秤の反対側に乗っていたはずの「それ以外の全て」としての役割が、こうした感情の爆発を押さえ込んでいました。まぁ元々特別に熱狂的な人たちはそれこそはじめから傾いていた人たちも居たのでしょうけど、しかし大多数の人にとってはそうではなかったはずなのに。それが一連の『アラブの春inエジプト』の中で本来あったはずの多くの役割が一時的に消失し、結果として残った役割・アイデンティティがその全てを支配することになったと。いやぁ悲しいお話ですよね。


それを役割にしろアイデンティティと呼ぶにしろ、『持たない人』というのは強いなぁ、という辺りのお話と纏めればよろしいのではないでしょうか。故に彼らは行動するのだと。