古くて新しい国旗国歌の議論

結局のところ『国家主権』という概念に行き着いてしまうお話なのかなぁと。故に外国のそれに口を出すのは否定され、しかし自国のその概念については色々議論があったりするんでしょうね。そしてその議論には終わりがないと。いやまぁよく解りませんけど。



あのアメリカですら自国国旗の焼却が禁じられていない理由 | 冷泉彰彦 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
まぁこの辺は、あの「アメリカですら」と見るか、あの「アメリカだからこそ」と見るかは、そのポジションによって違ってくるのかなぁと個人的には思います。まぁその意味ではこの冷泉先生のお言葉は一面としては正しくて一面としては不完全と言えなくもないんじゃないかと。

 その後、9・11が発生し、アメリカがアフガンとイラクでの戦争にのめり込む中で、例えばイスラム圏ではそれこそ米国国旗の焼却行為というのは頻発したわけです。勿論、そうした行動に対してはアメリカは国として抗議し、アメリカ世論も怒ったわけですが、2006年という正に「ポスト9・11」の世相の中で、自国国旗の損壊禁止法が最終的に上院での絶対過半数は取れずに終わりました。そのぐらい、アメリカという国といえども「自国国旗の損壊行為を禁止することへの自制」があるというのは重要な事実だと思います。

 何故なのでしょうか?

 答えは単純です。国旗国歌というのは対外的にその国家の名誉を代表する一方で、国内的には思想信条の統制や政治的な権力への従属を強いることに使ってはいけないからです。民間を含む外交局面においては自他の国旗国歌は尊重されなくてはならないが、純粋に国内政治の局面においては、国旗国歌の持つ権威を政治的な圧力や示威の道具とすることはできないという考え方、そのような言い方もできると思います。

あのアメリカですら自国国旗の焼却が禁じられていない理由 | 冷泉彰彦 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

実際、アメリカ人が一般に国旗好きというのはまさにその通りで、故に「アメリカですら」という言い方は確かに正しいものであるわけですよね。あのかつての南北戦争にしたって『国旗をかけたけた戦い』――星条旗vsサザンクロス――なんて言われる程で、お前ら一体どんだけ国旗好きなのかと。まぁそんな戦争を経たからこそ、より一層アメリカの国家統一の象徴としての『星条旗』が神聖視されるようになったという背景もあるんでしょうけど。
上記リンク先ではベトナム戦争以後の背景から説明されていますけど、しかしアメリカ国旗を巡る論争(それこそ南北戦争で敗北した南部州にとっては「押し付けられた星条旗」)は、ベトナム戦争どころではなくもう延々とやってきたお話でもあるわけです。実際1900年ごろには既に「国旗冒涜は軽犯罪」なんて法律が多数の州で存在していて、そうした国旗冒涜や損壊・所作法を巡る議論は、微妙に形や焦点を変えながら、違憲だの合憲だのと現代に至っても延々と続けられているのでした。
そうした歴史――国旗冒涜禁止法の是非、ベラミーさんの『忠誠の誓い』という儀礼作法について*1、国旗の商標使用、国旗の神聖視は偶像崇拝であり宗教分離に反しているのではないか等々――については、それだけで新書一冊掛けてしまうくらい歴史が積み重ねられているわけで。お前ら一体どんだけ国旗好きなのかと。
しかしその上で現在では、まぁ身も蓋もなく言ってしまえば民主党政権下では、そうした国旗議論に関しては概ね穏健的な方へ落ち着いているのでした。多分いつかまた共和党政権になったらまた議論が再燃するのでしょう。お前ら一体どんだけ国旗好きなのかと。


さて置き、まぁそんなアメリカ「ですら」国旗損壊禁止法が禁止されたりされなかったりしてきたのは、やっぱり星条旗という「連邦政府への信認の象徴」に対してのカウンターとして、また同時に「連邦政府への不信」というものもアメリカ社会にはそれと同じくらい古くて強い価値観が根付いてもいるわけなんですよね。あのロン・ポールのおじいちゃんがずっと生き残っているのもそういう理由があるわけで。小さな政府信仰。強力な政府はいつか国民をも強力に支配してしまうだろう、というような「政府こそを疑え」という精神。
国旗の侮辱を禁じる新法を公布、フランス 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
だいぶ昔の日記でも書きましたけど、一方でフランスなんかではあっさり可決されているわけで。そしてそんなフランスのようなやり方が世界的に見て殊更に少数派なのかというと別にそんなこともないのでした。その視点からすると、やっぱりアメリカ「だからこそ」こうして国旗に対する最後の一線が守られているのかなぁとも個人的には考えたりします。



ともあれ、その是非はさて置くとしても、まぁ今更国旗の損壊や儀礼について議論されている日本が古臭いとバカにすることもできなくはないんですが、しかし上記フランスやアメリカをはじめとして、別に現代においても尚結構どこにでもあるお話ではないかなぁと。
その意味で、議論をすること自体は別にあってもいいと思うんですよね。だってそれ自体を「その議論は古臭いものだ!」なんて否定してしまったら、それこそ「国旗や国歌は神聖で不可侵なものだ!」なんて言っている人と同じになってしまうんじゃないでしょうか。

*1:特に『神のもと』という文言についてはもう色々とあったり。