マジレス日記。
買わなきゃ当たらないよね : 2chコピペ保存道場
なるほどなるほど。確かに一理あるお話ではあります。
10人で20万円づつ持ち寄る→200万
はいどうも、えへへへへ、と主催者が入って来て110万持って行く
持ち寄った10人でじゃんけんをして
勝ち残ったひとりが残りの90万をもらえる
それが「宝くじ」
買わなきゃ当たらないよね : 2chコピペ保存道場
しかし別に重要なのは、期待値がどうとかそういうお話ではないんですよね。だからこの中抜き具合のひどさを指摘して彼らをバカにするは微妙に的外れだよなぁと。
なぜドイツは途方もない賭けに打って出たのか? - maukitiの日記
以前の日記で、なぜ一部の人びとは途方もなくリスクとハードルの高い原理的な反原発運動に傾倒してしまうのか、的なお話を書きましたけど、その実例としてはこの『宝くじ』の例の方がより典型的ではありますよね。
つまり一般にギャンブラーとされる人たちは、ただ単純にその期待値のみを見てそうした『賭け』にのめり込んでいるわけではないのです。
前回も引用したパスカル先生のお言葉を再掲すると、
「ギャンブラーが賭け事をするときに感じる興奮の大きさは、勝ったときの景品に、勝つ確率を掛けたものに等しい」
そして彼はこう続けた。「永遠の幸福という景品は無限大の価値をもつ。また、高潔な人生を送ることによって天の国に入れる確率は、たとえどれほど小さいとしても有限の値をもつ」したがって、無限大の景品に有限の確率を掛けたものはやはり無限大だから、信仰は――パスカルの定義にしたがえば――無限大の興奮を得られるゲームだというのである。
わけだから。
宝くじの一等の当選金による満足は、ただ金額の大きさに単純に正比例するわけではない。ウン億といった人生を変えられるほどの当選金について。それはやはり潜在的に現状に不満を抱える大多数の普通な人たちにとって、それは無限大の価値を持つといっても過言ではないのでしょう。故にその確率がどれだけ極小であろうとも――もちろん現実的には「多少」というレベルの許容ではあるのでしょうけど――期待値がそれを補うほどに大きければやはりそれは、賭ける価値がある、ということになるのでした。
その「人生を一変できる程の」という分岐点・金額が何処になるかというのはまた別の社会研究の一つではあるんでしょうけど。
ということでそんな控除率だけを見て合理的ではないと議論してしまうと、期待値の極大さを前提にした場合むしろ合理的に考えれば考えるほど、神が存在する方に賭けて宗教を信仰することは合理的に見て正しいし、そして宝くじの一等前後賞の当選金に賭けて投資することはそれこそ合理的に見て正しい、と同様に言えてしまうので注意が必要かなぁと。
しかしそうするとその議論のカウンターとして、じゃあもし別の神が居たらどうなんだ*1とか、金があるからといって幸せになれるとは限らない=故にそこに無限大の価値などない、とかそんな議論になってしまいますけど。
ともあれ、そんな経済的合理性一辺倒では生きていけない私たち。けどまぁそんなもんですよね。だって何に価値があるかは人それぞれなわけだから。とまとめてしまっては何の変哲もないオチではありますけど。
*1:もし別の神様が居たら間違った信仰を罰する為に地獄に落としてしまうかもしれない『天啓の齟齬に基づく論証』パスカルの賭け - Wikipedia