多文化主義という仮面の下にあったもの

そんな「小さな単一文化主義の集合体」という鬼子について。


「イスラム教徒に質問:9・11事件以降、どれくらい人生に変化があった?」:らばQ
9・11の衝撃によって『寛容』という名の見ないフリが出来なくなった人たち。
http://synodos.livedoor.biz/archives/1915429.html*1
状況としてはヨーロッパで勃興する極右な人たち、というお話にも共通する所があるんじゃないかと思います。
勿論そうではなく本心から相互理解と交流を成していた人たちも大勢居たんでしょうけど、しかしそれが全てではなく、少なくない人たちにとってそれは「一定の距離を置く」ことであり、そうした人たちによって実の所彼らの訴える『多文化主義社会』は維持されていたんだなぁと。

アメリカにもかなり多くのイスラム教徒(ムスリム)がいますが、大きなインパクトを与えた9・11のテロ事件は、その重大性から全く関係のないイスラム教のイメージを大きく変えることにもなり、差別や偏見から生活に支障が出た人も少なくなかったようです。

9・11事件以後の生活の変化について、海外掲示板に寄せられていた回答を、抜粋してご紹介します。

「イスラム教徒に質問:9・11事件以降、どれくらい人生に変化があった?」:らばQ

色々ヒドイお話ではありますよね。おわり。


ともあれ、この『9・11以後』のアメリカが特別というわけでもなくて、実際ヨーロッパをはじめどこもこんなもんじゃないのでしょうか。つまり、日常においては彼らはその取り澄ました仮面を維持できているものの、しかし一度その仮面を剥いでしまえばその下にあるのはこうしたどうしようもない本性が現代でも尚生き続けていると。多文化主義社会という仮面の下に隠されていたもの。
しかしまぁそれも別に不思議ではないと思うんですよね。「人種のるつぼ」ではなくて「人種のサラダボウル」を目指した末の当然の帰結。それって結局、相手に関わらないようにしよう、と互いにすれ違うようにしただけなんだから。それぞれの交流ではなく孤立を望んだ人たち。多文化主義と複数単一文化主義の定義について。
実際それも「何もなければ」それなりに上手く機能してはいたんですよね。国家の内部でそうやって均衡された状況が永続していけばそれで良かったのかもしれない。しかしそうはならなかった。移民の数はどんどん増えていくし、こうしてテロの事件は起きてしまうし、そしてそもそも一つの国家の中でお互いに無視しながら生きていけるはずがなかった。そして『日常』が破られる度に、彼らの多文化主義という仮面の下にあるものが顔を見せてしまうと。いやぁ多文化主義(複数単一文化主義)って素晴らしいなぁ。


こうした構図について、臭い物にフタをしただけだ、と身も蓋もなく言ってしまえばまぁその通りです。
でもそんな取り澄ました仮面こそが、相互不干渉という体裁こそが、私たち人類が近代以降に獲得した理性や道徳の一つなのかなぁとも思うんですよね。当然無いよりはあった方がまだマシです。ただやっぱりそれはどこまでいっても仮面でしかない。慇懃な態度でお互いを見ないようにしても、もし何かの弾みでそれを直視してしまった時、こうして本性(といってはあまり公平ではありませんけど)が暴露されてしまうのでした。
それは上記アメリカ人たちが殊更に愚かだと言うわけじゃなくて、そんな相互無視な多文化主義社会においては、こうなるのは必然の結果じゃないのかと。ビンラディンさんがここまで看破した上で、仮面を剥がす目的であのテロを起こしたのだとすればそれはそれですごい洞察だとは思ってしまいます。


ということでこうしたアメリカでの悲劇について、元来あった無知や偏見をそんなやり方――お互いに見ないフリをすること――で解決できるはずもありませんよね、と言うことしかできません。
かといって「お互いに相互理解を深めよう」と「彼らの生活に干渉しないようにしよう」にはやっぱり大きなハードルの差があるわけで。結果として妥協案でもある後者の多文化主義(=複数単一文化主義)を進めるのも無理もない、と諦観してしまいます。