母国語と思考能力について

いつの時代もそれが『教養の証』とされてきたのも納得なお話ではあります。


外国語で考えるほうが合理的:研究結果|WIRED.jp
へー、という感じです。へー。

これに照らし合わせると、母国語でなく、無意識には使いこなせない言語で思考することは、認知的に負荷のかかる行為であり、脳の処理能力を奪われるため、そのような場合には、手早く短絡的な思いつきに頼る傾向が強くなるように思われる。

しかしその一方で、後から習得された言語を使うときには、物事をじっくり考える態勢になるため、あまり当てにならない直感に頼る傾向はかえって弱まるとも考えられ、こちらも同じくらい妥当性がありそうだ。母国語でない言語では、感情的な言葉に対して即座に感情的な反応が引き起こされないという研究結果もあり、慎重な思考がなされる可能性をさらに示唆している。

外国語で考えるほうが合理的:研究結果|WIRED.jp

まぁそう言われてみれば解らないお話ではありませんよね。
例えば英語で論文のようなシステマチックなものを読む時は別にいいんだけども、ぶっちゃけ小説とかソネットのようなものを原文で読めと言われても、「エイゴスコシデキマス」レベルの僕のような人間にとっては行間や喜怒哀楽のような感情面は微妙に伝わってこないというかなんというか。それはまぁ確かに一長一短で表裏一体のお話ではあります。情緒的な面を重視するか、それとも論理性を重視するか。
そんな僕と似たようなレベルで英語のゲームをやっている人にはよく解るお話なんじゃないかなぁと。システムとかルールの部分は理解できるんだけど、村人の話とかがイマイチ理解できない感じ。某Civilization英語版だと、基本的にゲーム部分は理解できるんだけど、AI指導者との外交画面だとコイツら何言ってるんだ感がすごい。


この点を考えると、(例えば聖書とか)きちんと原語をマスターした上で読まないと本来の正確な物語は理解できない、なんて言われるのも納得してしまうしかありません。まぁだからこそプロとしての『翻訳家』というお仕事には頭が上がらないわけですけど。何時になったら続刊待ちのアレとかソレとかコレは出版されるんでしょうか。そういえば、そんな物語の翻訳という点でものすごく物議を醸し出していた*1『炎と氷の歌』が結局再訳版という形で出ているあたりさもありなん、ではあります。どうでもいいから早く続きが出て欲しいものです。


さて置き、母国語でなければ「感情的な言葉に対して即座に感情的な反応が引き起こされない」というのはやっぱり経験的にも理解できるお話ではあります。
「障害者」とか「障がい者」とか、最近でもその言葉の扱いをめぐって色々言われていたりしますけど、その意味では「チャレンジド」というのは一瞬考えさせる点では効果があるのかなとは思ったりします。しかしその内それも「チャレンジド(笑)」と感情的な反応が返ってくるようになると予測されますので、次はスペイン語フランス語中国語と色々手を変え品を変えやっていけばいいんじゃないでしょうか。最終的にはミノア文字とかエルトリア文字とか古代イベリア文字で表記すればいいんじゃないかな。構造的には完璧です。
本質的に何も解決していないだろうというは確かにその通りなんですけど、元々の「障害者→障がい者」もそれとやっている構図はほぼ変わりないと思うので、そうした言い換えに熱心な方は是非検討するといいんじゃないでしょうか。