排外主義2.0

なぜ進んでいたはずの欧州やアメリカで排外主義が多少なりとも許容されてしまうのか? なお話。


神の摂理の如く少数派へと転落するアメリカ白人たち - maukitiの日記
先日の日記を書いててやっぱりこの辺の事情はアメリカでもヨーロッパでも似たような所にあるのかなぁと。多文化主義が常識として浸透しつつあるからこそ、逆にネイティビズムがある程度の支持を得てしまう構図。まぁ皮肉なお話といえばその通りであります。新たな移民たちから圧迫を受ける土着の我々だって保護されるべき文化の一つではないのかと。つまり、彼らは結果として似たような場所に着地していても、しかしそれってKKKのような伝統的『白人の人種的優越性』などから生まれているわけでは決してないのでした。
自分たちを「強いから」と自己正当化して排外主義に走るのではなくて、むしろ「弱いから」「追い詰められているから」と自己正当化して排外主義へと向かってしまう人びと。俺たちは加害者ではなく被害者なのだ。まぁそれは現代社会で大衆に訴えるという視点からすれば、前者と較べたらよっぽど筋は悪くありませんよね。そりゃヨーロッパのどこでも反移民や極右政党が伸張しちゃうよなぁと。


他によくある構図としては「我々は彼らに仕事を奪われている!」とか、「むしろ我々の方が保護されるべきだ!」とか。
なぜ欧州は狭量さを示すようになったのか? - maukitiの日記
ちょうど去年の日記でも書きましたが、やっぱりそうした『狭量さ』の着火点には経済の不調があったりするわけです。ただまぁそれだけで説明し切るのはどうなのかと突っ込みを受けていましたし、無理があるかなぁとは僕自身も思っていましたので今回の点を加味すると多少は補完できるかもしれません。
現在起きているのは、そうした経済危機によって生まれた反感が、リベラルな多文化主義と奇妙な共同歩調をとり始めていることによって、彼らが民主的な選挙で少なくない議席を獲得するという継続的な構図に至っていることの背景にあるんじゃないかと。
「弱者である俺たちも当然の権利を主張しよう!」なんて。ここで重要なのは、実際にそうであるか、は大して意味がないんです。
重要なのは、自身がどう感じているか、でしかないのです。「移民などの少数派な人びとが政府から弱者として保護され優遇されているのであれば、俺たちだって同様に政府から弱者として保護され優遇されるべきではないのか」とか「俺たち多数派の中に勝ち組のエリートが居るように、移民や少数派の中にも成功者はいるじゃないか」とか。まぁ確かにそれは100%全て間違っているわけではありませんよね。そして完全なウソではないからこそ余計に扇動は効果が出てしまう。もちろん現実問題として、割合としてはかなりの隔たりがあるわけです。しかし、怒れる人々にとってやっぱりそれは重要な点ではないのです。
ただ(存在すると信じている)少数派への優遇措置によって同様に弱者である俺たちが負けつつあることへの是正を訴えたいだけなのだ、と。単純に極右や排外主義と聞くと身構えてしまいますけど、しかしこう聞くとそれを支持する人が一定数以上居るのも頷ける話ではありますよね。その意味でやっぱり人権先進国たるヨーロッパはさすがだなぁと。


まぁこうした状況は、私たち日本でもそれなりに見られるようになってきた構図でもあるかもしれません。よく見られる光景のように、針小棒大にその脅威を訴える人たちを「ネトウヨはバカだなぁ」と嘲笑することは確かに簡単ではあります。
しかし、こうして新たな背景と共に生まれつつある『自分たちを弱者であり被害者であると主張する排外主義』は、まさにヨーロッパやアメリカで証明されているように、それなりに人びとの共感を得ることが可能であることを念頭に置かなければならないんじゃないかと思うんですよね。それは多数派の中にも必ず存在している相対的弱者の声の代弁でもあるわけだから。その手法がこれまでのリベラルな方たちがやってきたことの(デッド)コピーという点は、まぁなんというか皮肉なお話ではありますよね。右と左の逆転現象。
ハンチントン先生はキャロル・スウェインさんの著書を「その可能性を誇張しているきらいがあるが」と前置きした上で、彼女の主張を次のように引用しています*1

われわれは「多くの社会的勢力の集中が同時に起こる」のを目撃している、と彼女は言う。
こうしたなかには、「人口統計の変化、人種的優遇政策の存続、民族的マイノリティの期待感の高まり、リベラルな移民政策の存続、グローバリゼーション関連の雇用喪失に関する懸念の増大、多文化主義の要求、意見を同じくする個人同士を結びつけ懸案や戦略を共有させて政治制度に影響を及ぼそうとするインターネットの力」が含まれる。
これらの要因はとりもなおさず「白人の人種的意識と白人のナショナリズムを強める。それはアメリカにおけるアイデンティティ政治運動における必然的な段階なのだ」
結果としてアメリカは、「ますますこの国の歴史において、前代未聞の大規模な人種抗争が起こる危機に面している」

確かに一考の価値のあるお話ではあるかもしれません。
やっぱりそれはマイノリティ支援や多文化主義のような行動が生んだある種必然の結果ではあります。はじめは寛大だった人びとが、いつしか徐々に自分たちの地位が脅かされているかもしれない、という恐怖感を抱いてしまう。社会的集団の防衛本能であり生存本能だとさえ言えるかもしれません。それが最悪の形で表出したのが旧ユーゴなどでの民族浄化であるし、そして『幾分は』穏やかな形をとっているのが国民投票などによる「モスク建設の反対」や「ヒジャブやブルカの禁止」や「不法移民の取り締まり強化」だったりすると。かつての『黄禍論』からの伝統の一つではありますよね。脅威から身を守ろうとする人びと。


ネイティビズムという排外主義の新しい形。彼らの『心の中には』確かに存在している被害者感情について。私たちはこうした新たな排外主義に一体どう対応すればいいのでしょうね?
個人的には、まぁ昨今の原発をめぐるアレコレとかなり似た構図だなぁと生暖かい気持ちになってしまって複雑な気持ちに。でもこう書くと「一緒にするんじゃねぇよバカ」と怒られてしまいそうなので今のうちにごめんなさいしておきます。ごめんなさい。
ともあれ、それは経済危機と並んで多文化主義の先進国であることが、結果として彼らの『狭量さ』を招く一つの要因となっているのかなぁと思います。見事に多文化主義の尻馬に乗った排外主義者たち。皮肉なお話ですよね。
みなさんはいかがお考えでしょうか?