21世紀の今だからこそ領土問題が流行る理由

今も昔も「領土問題は蜜の味」なお話。


尖閣諸島に石垣市議ら2人上陸、海保 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
時事ドットコム:日本の反発「全く関心ない」=北方領土訪問、今後も継続−ロシア首相
ということで昨今の日本でも北に南に領土問題は大盛り上がりであります。
こうしたことを殊更に取り上げて人気を稼ぐ石原さんやそれに便乗した野田さんをバカにする声があったりするのは理解できなくはありません。今更領土問題で人気を稼ぐなんて。ロシアや中国とやってることは基本的に違いはないわけで。でもまぁ世界中殆ど何処でも見られる光景ではありますよね。
しかしまぁそれに反発を覚える人たちの気持ちは解らなくはありませんけど、しかし彼らの批判する「不自然だ!」や「時代遅れだ!」というのはあんまり賛成できないんですよね。むしろ現代の世界観だからこそ、必然の結果として領土問題は燃え上がっているんじゃないのかと。そこで燃え上がる人たちは時代遅れというよりも、むしろ時代の申し子とさえ言えるんじゃないでしょうか。


だって昔は一口に『領土』といっても、植民地を含めてずっと獲ったり獲られたり交換したりしてたじゃないですか。国境線は常に変化してきた。だからこそ人びとの共通理解として国家の領土とはそういうものだと認識してもいたわけで。増えることもあれば減ることもあるのだと。
でも今はそんなことまったくありませんよね。私たちは最低限の共通認識として――それは中国やロシアのような国でさえも――固有の領土は決して犯してはならないと考えているのです。その意味で、『領土』の問題はかつてよりもずっと神聖で不可侵なモノとなっている。そりゃ、人びとが燃え上がってしまうのも当然ですよね。だって領土は「獲ったり獲られたりするもの」では決してないと私たちは――進歩した良識として――考えているんだから。
かくして(レアリティのあがった)領土についての議論はそれはもう燃え上がってしまう。そこにもう弾力性はなくなってしまったのです。21世紀の世界に生きる私たちだからこそ、かつてよりもずっと、領土問題での議論で頑なになってしまう。



かつてビスマルク先生は、アフリカ分割を定めたベルリン会議において、そうしたイギリスやアメリカなどの民主政の国家たちをして、次のように皮肉っています。

「植民地に関する討議はそもそもペテンであるが、しかし選挙の為には必要だ」

イギリスのソールズベリーさんもそうなんですけど、民主政治を疎んでいた人たちほどこうしたポジションだったのは、まぁつまりそういうことなんでしょうね。国民国家の主役たる私たちが避けては通れない衝動。
かくして私たちは選挙を通して、自由奔放な植民地争奪戦に明け暮れていたあの頃と負けず劣らずに、かつての理由とはまったく別の理由で領土問題に関して熱をあげてしまう。争奪するのではなく、固定化されていると確信しているからこそ。


そんな現代における領土問題について。いやぁ進歩したのか後退したのかよくわかりませんよね。