手をとりあって

ということで怒られてしまった先日のウナギ日記の補完的お話。国際機関の実行力と正統性の確保に関わるお話。折角なのでタイトルも次の章らしく。あ、ちなみに個人的にはタイトルとしては『思い通りに行かないのが世の中なんて割り切りたくないから』が一番好きです。


【土用の丑(うし)の日にウナギを考える】資源減少の背景に乱獲 ないに等しい漁獲規制 国際協力も進まず : 47トピックス - 47NEWS(よんななニュース)
まぁやっぱり個人的にもこの辺りのポジションになってしまうのかなぁと。しかし特に先日の日記の結論部分に関しては茶化して書きすぎてしまったので、その点の不真面目さ・不謹慎さというご批判やお怒りについてはやはりごめんなさいするしかありません。ごめんなさい。ええ、ヘラヘラするなと昔からよく怒られています。

 水産庁も6月末にまとめた緊急対策の中で、産卵に向かう親ウナギの漁獲の抑制とシラスウナギの河川への遡上(そじょう)を確保する取り組みを関係者に働き掛けるとしたが、強制力はなく、自治体関係者の間には実効性を疑問視する声がもっぱらだ。
 養殖関係者の業界団体の連合体、日本鰻協会はこのほど「母なる天然鰻を守ろう。」とのポスターを作製、天然ウナギの漁獲自粛を呼び掛け始めた。だが、これにはウナギ漁関係者から「シラスウナギの乱獲こそが資源減少の原因だ」との激しい批判が噴出し、限られた資源をめぐって両者が対立する構造に。関係者が一体となった資源管理の実現には程遠い。
 「シラスウナギの漁獲量や養殖ウナギの生産量が増えている中国との協力が欠かせない」と6月半ば、水産庁の担当者が訪中し、中国・農業部の担当者と初の協議を行った。
 だが、実質的な議論は半日だけ。日本側が求めた養殖施設の見学も実現せず、次回の日程も決まっていない。
 「ニホンウナギは、日中や韓国など東アジアが共有する国際水産資源で、国際的な保護の努力が不可欠」(塚本教授)なのだが、その実現は容易ではない。

【土用の丑(うし)の日にウナギを考える】資源減少の背景に乱獲 ないに等しい漁獲規制 国際協力も進まず : 47トピックス - 47NEWS(よんななニュース)

この問題でめんどくさいお話になっているのは、特に日本の消費量が圧倒的過ぎて、当事者各国それぞれにそうした漁獲制限へのインセンティブが働かなかった所にあるのでしょう。
だから本来ならばその最大の受益者である「日本こそが」率先して動かなければならなかったはずが、まぁ私たちはそうしたことを概ね見て見ぬフリをしてきてしまったわけで。だからこの問題における日本の責任は多分ずっと大きいと言えてしまうのでしょう。「決定的」とされるほどに。
そして放置し過ぎてしまった問題は、後になれば後になるほどより劇的な解決手段が必要になってしまって、更にそれを用いることに反発を招くようになっていく。もっと最初からやっておけばより穏やかな解決策がとれたのに。いつものパターンというか、有名コピペの「今日逃げたら明日はもっと大きな勇気が必要になるぞ」そのまんまの展開となっております。いやぁ救えないお話ですよね。
また、こうした国家安全保障に関わる『食糧』のお話に関連して、この問題を更に解決を難しくしているのは、日本におけるクジラのそれでもしばしば(感情的に)指摘されているように「クジラの次はマグロと、一度譲歩してしまったら次もそれを強いられてしまうのではないか」という反発が加わってしまうからであります。
こうして、根源的に無政府状態にある国際関係において各国政府が自由なプレイヤーとして振舞ったりすると、それはまぁどうしようもないグダグダが始まってしまうのです。特に一般には軍事関係や資源の国際合意の難しさが語られていたりしますけど*1、それと同じくらい食糧関係=農業などについても、それはもう関税やら補助金やら投資やら買い付けやら資源メジャーやら、むしろ軍事関係のそれ以上に揉めまくってしまうのでありました。そしてそれは今後益々重要性が増していくだろう水産資源についても同様であると。
私たち人間にとって食糧の問題は重要すぎる。だからこそ「手をとりあおう」ではなくて、重要すぎて「他国(他者)の言いなりになどなりたくない」なんて方に向かっていく。「共有地の悲劇」というよりも「人類の悲劇」そのものであります。そうやって人間の歴史的に見ても、食糧や衣服などの「人間の必要」と競合する動物は、それはもう種の絶滅という確率が残念なことになってしまう。


駆り立てるのは野心と欲望 - maukitiの日記
ともあれ、弁明というわけではありませんけど、先日の日記でも少し書いて――――そして国内的な個別のウナギ漁のことと読まれて怒られてしまった――「じゃあ一体どうやって海を広大に泳ぐウナギにそんなものを設定すればいいの?」というのは実際こうした意図で書いたものであります。国際取引保護の、その是非ではなく、実効性について。
つまるところその『所有権』について、国内的にはともかくとしても、一体どうやれば国際的に合意できるのか。その点で、おそらく「科学的事実に基づいた漁獲制限」というのが機能しないであろうということは、昨今の日本の私たちのそれを見れば予想できますよね。その問題は重要すぎて、論理の問題というだけでも、感情の問題というだけでも解決しないのです。サンデル先生に言わせればやはりそれはそれぞれの『正義』についての問題だ、なんて言ってくれるかもしれません。この辺のお話もいつか書こうかと思いますけど今は割愛。
かくしてそれによく失敗する私たちは、しばしば、『共有地の悲劇』の問題として解っていながらもチキンレースに走ってしまう。ただの国内の問題であれば楽に解決できたはずが、しかし国境線をまたいでいたり公海をまたいでいたりして、そこに関わるプレイヤーが増えれば増えるほど問題は指数的に複雑になっていく。そしてそこに隣国関係に普遍的にありがちな感情的な好き嫌いな問題が加わると……おお、もう。



ウナギをめぐるこうした構図を見ていてなんとなく思い浮かぶのは有名なカスピ海の『キャビア』のそれで、やっぱり最終的にはワシントン条約によった強制的な解決*2しか選択肢は残されていないのかなぁと。国際取引の禁止というオチ。
もちろんニホンウナギに関わる地域一帯のプレイヤーたちがそれぞれに満足する形で漁獲制限に合意できればそれにこしたことはありませんけども、あまり期待はできませんよね。ついでにカスピ海以上に広大すぎる海域――グアム沖からフィリピン・中国・台湾・日本まで――で満足に調査と合意が出来るのか。もちろんその流れを変えようと努力している人たちが居ることはすばらしいと思いますけど、しかしやっぱり日本の国内意思でさえ全然纏まっていないわけだし。いわんや多国間の合意をや。
となるとやっぱりキャビアの事例のように、結果的にカスピ海沿岸諸国は割当量の合意に失敗しワシントン条約事務局によって強制的に取引禁止にされてしまった、というオチをウナギもなぞってしまうんじゃないかと。
キャビアは養殖技術がそれなりに確立していたからこそ、まったく食べられなくなってしまうということもありませんでしたけど(ついでに密漁祭りもあったりして)、ウナギの場合はそれも現段階では難しいみたいで。結果的に見れば「養殖という逃げ道」がないからこそ、余計に短期的利益を求めてしまっている構図とも言えるかもしれません。それをまぁある意味で合理的だろう、と言ってしまってはまた怒られてしまいそうですけど。


「規制すればいい」というのは確かにその通りでありますけども、しかし一体どうやれば実行力と正統性をもった国際的な『規制』を生み出すことができるのか。個人的には一連のウナギのお話ってつまりそういう古くて新しい問題が問われているんじゃないかと思ったりします。
みなさんはいかがお考えでしょうか?