これからスポーツの正義の話をしよう

世界的ですもんね、乗るしかないこのビッグウェーブに。


引き分け狙い…なでしこ、フェアプレー精神はどこへ  :日本経済新聞
わーたのしそー。女子サッカーの引き分け狙いはフェアプレーか否か。
まぁ前回のワールドカップの優勝だってどう見ても日程上の有利によって勝ったのだから、今回もそれを狙うのは当然の帰結ではないかなぁとは個人的には思いますけど。しかし本質的には、なでしこは果たして『弱者』なのかそれとも『強者』なのか、ということが問われているのかなぁと。弱者の戦略としては当然許容範囲だけども、しかし強者がやったらそれは寒いよね、という判断基準はやっぱりある気がします。
バドミントン「無気力試合」の8選手が失格処分 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
その一方でこういうお話もあったりして。しかしどう見ても後者は「やり過ぎてしまった」というオチではありますよね。中国と韓国が(どちらが始めたのかはともかく)お互いにわざと延々サーブ外す絵というのは、なんかもうシュール過ぎて笑ってしまいます。勝利を目指すのではなく敗北を目指す人たち。それもこれも本人たちは至って心底マジメにそんなことをやっているからこそまた面白いのではありますけど。お互いがそれぞれに負けようとするものだから、その下へ下へというスパイラルは、もう少し上手くやろうというレベルですらなくなってしまう。
ただまぁ上記の女子サッカーの移動日程もそうなんですけど、同じ国が二チーム以上トーナメントに出てたらこうなるのは必然の帰結ですよね。そんな設計をした大会運営側がもう少し配慮していれば防げたミスでしかない。



勿論ルールを守って戦うのは当然で、しかしその上で更に要求されるべきフェアプレーや、本来その競技に付与されている『精神』をも追及しなくてはならないのか? この辺のお話は日本では特に「柔道とJUDO」をめぐってよく言われる話ではありますよね。国際化する以上、かならずその価値観・正義の衝突は避けられないのでしょう。野球とベースボールの違い、サッカーとフットボールの違い等々、やっぱりそれは多かれ少なかれ実は異種格闘技戦なんだろうし。
スポーツの大義について。勝てばいいのか? 『正しく』戦えばいいのか? それともプレイヤーたちに一任すべきなのか?


さて置き、今回のオリンピックにおけるゴタゴタは構図としては日本の高校野球のそれに近いのかなぁと。完全にエンターテインメントとして、あるいは完全に商業化されていれば、もう少し問題は簡単だったでしょう。勝てばいいのか、観客さえ楽しませればいいのか、それとも選手たちが満足すればいいのか。
しかし高校野球が『教育』の問題が絡んでしまってひたすらめんどくさくなっているのと同様に、オリンピックも特別な意味合いが付与されている(まぁ逆にそんなものないとひたすら五輪に冷淡な人も居たりしますけど)からこそ、こうして問題になってしまう。
その意味では高校野球のそれが本質的に「教育とはなんぞや?」という問題を孕んでしまうように、今回のそれも同様に「では、そもそもオリンピックってなんぞや?」ということが問われているのかなぁと。かつてならばもう少し無邪気にオリンピックを喜んでいた私たち。しかしもうそういう幸せな時代は過ぎ去ってしまった。行き過ぎた商業主義や、あるいは未だに少なくない国が抱く国威発揚という面だとか、選手にとってはまさに今後の一生を左右してしまうメダルの有無だとか。現代のオリンピックの存在意義について。


みなさんはいかがお考えでしょうか?