『独島』に背負わされた建国神話

韓国人の異常な愛情について。その領有権問題の是非や議論云々については勘弁してくださると幸いであります。


そういえば毎週土曜は出先で普段は見ないテレビを見る機会があって、竹島問題のそれが普通にニュースでやっててびっくりです。たけしと安住さんのあれ。やっぱり今回一連の騒動は良くも悪くも「少なくない日本人を目覚めさせちゃった」感じではありますよね。
「深く静かに支配せよ」を守れない人たち - maukitiの日記
先日の日記でも少し書きましたけど、折角みんな興味なかったというのに、ほんと眠らせておけばよかったのにね。一体何で目を覚まさせちゃったんだ。よく右側――ていうか右翼の人――が「日本人よ、目覚めよ!」なんてやかましく煽ったりしますけど、見事に目覚めさせたのがその相手側の一言だったっていうオチ。
ともあれ、まぁ彼らのその独島への熱狂について生暖かく見ていたんですけども、やっぱり韓国にとってあの島は日本に対しての独立の象徴であるんだろうなぁと。彼らにとっての(もう一つの)建国神話。そう考えると、同じ領有権問題にしても中国やロシアのそれとはまた一味違った、明らかな彼らの入れ込みっぷりや暴走とか、も理解できるのではないかと考えた次第であります。
以下、彼らがまるでギャグのような構図に走ってしまったことの根本の要因って何なのか? についての個人的見解という適当なお話。


以前の日記で次のようなことを書いたんですけど、やっぱり彼らの『韓国人の異常な愛情』って構図としてはこういう所に行き着くんじゃないかと。

民族とナショナリズム研究の権威たるベネディクト・アンダーソン先生は、こうした『国』のような人工的な政治共同体を「想像された共同体」と定義し、(共通の)歴史的な記憶によってこそ、彼らは同じ共同体の仲間であると認識するようになると述べています。それは過去にあった(あるいはあったとされる)苦難や功績であり、英雄や悪漢であり、敵や戦争、敗北や勝利であると。民族や宗教や文化など、つまり私たちは同じ記憶を持つからこそ同じ仲間であると認識する。日本を含め世界中のどこでも建国神話や戦争の悲劇や勝利が、半ば神話として語られているのはそういう理由なんです。

『想像の共同体』の核となるもの - maukitiの日記

それは彼らの国家の中心軸となる『共通の記憶』であるのだと。日本人が広島や長崎や沖縄へ、アメリカ人が未だにレキシントンやらバンカーヒルやらゲティスバーグに行く感覚。そこに今の『国家』としての起源のひとつがあると考える人たち。故に彼らは「それは我々にとって重要すぎるから」と後に引けなくなってしまう。


この辺の彼らの愛国心的な感情が(端から見ていて)愉快なことになっているのって、やっぱりそもそも彼らの独立ってその成果が出る前に棚ボタ的に手に入れてしまったことが根幹にあるんじゃないかと思うんですよね。
日章旗の後に上がったのが星条旗でさえなければ。もっとハッキリとした抗日運動の象徴、あるいは成果ががあればよかったのに。しかし日本が勝手に自滅したおかげで独立国家としての地位を再び手に入れた彼らは実質的なその『勝利の証』が何もなかったわけで。あるいは南北分裂や朝鮮戦争ももっときちんとした形で終わってさえいればこんなことになっていなかったかもしれない。
もちろん竹島の占拠について当初の目論見としてはより大きな支配地域を確保しようとした狙いではあったんでしょうけど、しかしいつしかそれは「独立の戦果」として数えられるようになってしまった。まぁ多分に自分たちでそんな神話を煽った結果、逆にその神話によって選択の余地がなくなるという自業自得ではあるんですけど。


かくして――補償金や経済援助は使ったらなくなっちゃったし――何故かその勝利の証という『共通の記憶』の役割がただの島へと背負わされてしまったと。そう考えると彼らのああした教育や観光地化から始まり、そして今回のほぼ自滅的な行動へと至った異常な熱狂は理解できるんじゃないかと思います。
なぜ『独島』だったのか? ――といえば、だってそれしかなかったから。
「(放っておけばいいはずの)ただの島」でまさか半ば国運まで掛けようとしてしまう人たちについて。まぁなんというか、見ていて怒るというよりも悲しくなってしまうお話ではあります。