「ただ乗り」を許さなかった果てにあるもの

公共財として無料(タダ)だからこそ余計に許せない人びとのお話。


山形市が、救急車出動基準を初公開 : 山形 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
わーこれはひどい。おわり。悪貨が良貨を駆逐する、と言ってはそれまでではありますけど。

 山形市で昨年10月、山形大2年大久保祐映(ゆうは)さん(当時19歳)が死亡したのは、119番通報を受けたにもかかわらず、市側が救急車を出動させなかったためだと遺族が訴えている問題で、市の武田弘太郎消防長は28日、救急車出動を是非を決める6項目の基準を初めて明らかにした上で、大久保さんのケースについて「職員が総合的に判断して決めた」と説明した。

 この問題への市側の説明が不十分だとして、市議会はこの日、全員協議会を開いて、市川昭男市長らから改めて説明を受けた。質疑では、救急車出動の判断基準に関連した質問が相次いだ。

 武田消防長によると、119番通報には、市消防本部の通信指令課職員が2人で対応。市独自の「受理票」に基づき、傷病者の意識や出血、嘔吐(おうと)の有無など6項目について、1人が通報者に質問し、回答内容をもう1人と検討した上で、救急車の出動の是非を決めるとした。

山形市が、救急車出動基準を初公開 : 山形 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

ということで、うん、まぁ、悲しいお話ではありますけれども、しかし彼はずっと指摘されてもきた「無料の救急車の乱用問題」の被害者でもやっぱりあるわけですよね。その点でこの(山形市における)消防署の判断基準が、不幸な事故を起こしてしまったことについて、一方的に責めるのは酷ではあるかなぁと。それって別に彼らが完全に自発的・恣意的に定めたわけじゃなく、ある種の「ルール外」に居る人たちの割合によって導かれた解答という面もあるのだろうし。
これはいつだってそうした『ルールの下限』を決めてしまうのはアレな人たちだというある種普遍的なお話でもあります。私たちの社会は常に一部のバカを中心に定義されてしまうのだから。


ともあれ、「救うべきか、救わざるべきか」という一線をどこにするのか。私たちは一体どこにその判断基準を設定すればいいのか?
もちろん多少のムダがあっても全員を救えるならばそれにこしたことはありません。しかしそのリソースには常に限界があるわけで。「もっと現場ががんばればいい(棒)」とかやるのは論外でありますけども、もっと誠実な意見として「ただ見殺しにするくらいならそのリソースの増加を私たち自身の負担増でまかなうべきだ」というのはそれはそれで一つの解決策ではあるとは思います。
ところがこの辺は実に面白いジレンマがあって、私たちはそれが公共財であればあるほど、しかし同時に少なくない割合の私たちは「ただ乗り」を許せなくなっていくんですよね。それこそ少し前の生活保護の例で証明されたように、小狡いフリーライダーが許せない。確かにその怒りはかなりの面で正当でもあるのです。だって間接的にはそれは私たちの税金なんだし、そして同時にそうした公共財を守る為に「救急車の乱用を許さない!」と声を上げることは適切でもあります。しかしそんな私たちの『正当な怒り』は結果として、その運用をよりシビアにしてしまうことでもあるんですよね。まさに「ただ乗り」を許せないからこそ、より厳格な運用基準を求めてしまう。これじゃ一体何の為に私たちはより大きな負担を抱えているのか全く解りませんよね。ザ・本末転倒。


さて置き、まぁそもそも論でいうと、普段は見て見ぬフリを続けながらこうして問題が起きた――『救急車の乱用』が問題になった時や『重篤な被害者』が出た時――にだけ、したり顔で彼ら当事者たちの判断を批判するのもどうかと思うところではあるんですよね。それこそ広く一般に公共哲学・政治の問題として普段から話し合っておくべき問題じゃないのかと。その辺を無視して「もうちょっと上手くやれ」なんてとても言えない。
みなさんはいかがお考えでしょうか?