かつての私たちが諦めた「相互理解」という情熱

ここ数日続いている『イノセンス・オブ・ムスリム』ネタが視点を変えてもう少しだけ続くんじゃよ。


CNN.co.jp : 反イスラム映画の製作者を任意聴取 「非常に協力的」と米当局
ということで事実上の『保護』を求めて警察へいったそうで。まぁ身の安全を考えるのならば当然のお話なのかもしれません。本当に彼が計画者なのかはともかくとして、ぶっちゃけここまで来るともうアメリカの威信に掛けても彼を殺させるわけにはいかないだろうし。
宗教を批判対象にした際の不敬罪・冒涜罪について。実際に預言者を侮辱することは重犯罪である、という国はあちらでは少なくないんですよね。パキスタンなんて死刑な上に、その冒涜罪に疑問を投げかけただけで暗殺されちゃうほどです*1。そして『アラブの春』以後のエジプトなんかでもそうした空気が生まれつつあるのでした*2
宗教を批判することはつまり犯罪である、なんて。


ソーシャル革命からソーシャル反米へ - maukitiの日記
ともあれ、先日の日記でも書きましたけど、やっぱりある種のグローバル化がこうした事態を引き起こすのは当然の帰結ではあるんですよね。実際、それまでは限定された社会・共同体の内部で起きていたことが、こうして世界規模でそのコンフリクトが起こるようになってしまった。せいぜい国家レベルでしかなかったそれが、アメリカに居る一人のバカがやったことに対してこうして地球の裏側にまで影響を及ぼしてしまう。一人のバカが悪影響を及ぼす範囲が文字通り地球全てにまで広がってしまった末の悲劇。まぁ多分に喜劇的でもありますよね。


それが少なくとも国家レベルでとどまっていられたならば問題はなかったんです。上記のように「宗教批判は犯罪行為である」という国がある一方で、近代以降になってフランスを先駆として根付いた「ライシテ=公共における脱宗教性」を基本理念とする国が存在している。両者がバラバラに存在してお互いに無視してさえいればそこまで問題は起きなかったんですよ*3
ところがグローバル化の世界に生きる私たちはそうも言っていられなくなりつつある。あまりにも両者の距離が縮まったせいでお互いの姿がよく見え過ぎるようになってしまった。私たちが「宗教への冒涜で死刑にするなんてバカげている」と素朴に考えているのと全く同様に、彼らは「宗教への冒涜を放置することはバカげている」と素朴に考えている。
その解決策として(自称「進歩」した)私たちはお互いに合意することを諦めたのです。どうせ合意などできない多元社会においては意見を一致させることなんて不可能だから全て棚上げしてしまおう、その一歩として宗教から自由になろうではないか、と。私たちは相互理解という情熱を最早捨ててしまった。だって合意するのは無理だったし、そもそも『議論』という段階で強制と不寛容の芽が生まれてしまうことに気付いてしまったから。冷静な議論さえまともに出来ない私たちが合意と理解というゴールなんてできるはずない。確かにそれは最終的な着地点それなりに正しいのでしょう。
しかしもう一方の彼らはそんなことなかった。彼らはただ不寛容というよりはむしろ、まだ諦めていないだけなのです。その怒りは伝わるものだと確信している。


その意味で、こうした『反ムスリム映画』に怒る人たちを見ていると、なんだか(別に揶揄目的ではなく)とっても眩しいなぁと思ってもしまうんですよね。もちろん殺したのはやり過ぎですけども、しかし彼らは怒ればどうにかなると思っている。もう「全員の合意なんてあるわけない」と相対主義という袋小路へ逃げ込んだ私たちにはとってもその情熱は眩しい。
何もかも諦めてしまった老人たちと、解決できると情熱に満ちた若者たち。



遠く離れた別々に違う星で暮らしていれば良かったのにね。ところが地球は――善くも悪くも――一つになってしまいつつある。お互いにより近くに住むようになったせいで、若者たちはそんな老人の諦観に怒り、そして老人たちはそんな若者の情熱をしたり顔で窘めようとする。
若者もいつしか老人のようになってしまうのかもしれないし、しかしそんな若者による情熱こそが老人たちが諦めた境地へたどり着くのかもしれない。まぁ僕なんかにはどうなるかなんてさっぱり解りませんけども。


老いも若きもみんながんばれ。