「表現の自由」を広めることは傲慢なコスモポリタニズム?

やっぱり大きな対立点となってしまったイスラム預言者風刺のあれ。「悪魔の詩」などで以前からずっと言われていた話ではありますけども、このまま固定化していくと一体どうなるんでしょうね?


エジプト大統領:独裁崩壊後初の国連演説 民主化進展強調− 毎日jp(毎日新聞)
文明間の相互理解を エジプト大統領初演説 - MSN産経ニュース
ということで先日の国連総会の演説で色々と興味深いことを言ってみせたモルシ大統領であります。「国際社会はイスラム恐怖症に陥っている」とか「『表現の自由』を尊重しろと迫る一方で、我々の『宗教的基準』を国際社会が尊重しようとしないのはダブルスタンダードではないか」とか。賛成できるかどうかは別として、とにもかくにも民主国家の大統領がそういうことを堂々と発信されるような面白い時代になったんだなぁと色々思う所ではあります。
しかし前者はともかくとしても、後者の「二重基準だ」という批判を聞くと、やはり私たち「公共社会での脱宗教性」を重視する側からすると色々と断絶を感じてしまうお話ですよね。航海もしていないのにこの断絶っぷり。先日の日記でも書きましたけど、お互いがお互いに自身の『表現の自由』と『宗教的基準』という価値観について、どちらも自明の論理であると心の底から確信している。
この点において両者は合意できるのでしょうか?


そんな風に単純化して二者択一などにせずに、もっとお互いに歩み寄ることでその二つを両立させればいいではないかバカもの、というのは確かにその通りであります。
実際『表現の自由』には限度が設けられていますし、だから無制限にそれを乱用していいなんてことは絶対にないわけで。だからそこでは例外規定として「他の者の権利、国の安全、公衆の健康や道徳の保護の目的のため、一定の制限を科すことができる*1」なんて定められてもいるんですよね。
しかしそれでも、ならば『表現の自由』への例外規定に『宗教的基準』を持ち込む事ができるだろうか?  ――と考えると個人的には首を傾げざるをえないかなぁと。
元々、そうした『表現の自由』をはじめとする人権擁護の中核にある概念ってやっぱり「国家(権力)からの恣意的権力行使を受けない為のもの」であるんですよね。むしろ人権擁護の価値観ってその一点こそが本命でさえある。市民は強大な権力から安全と尊厳を無闇に奪われることはあってはならない。だからこそ、市民社会において最も重要視される自由である権利なのです。まぁ昨今ではそれを何故か「市民対市民」の文脈で持ち出そうとする頭の痛い人が多くなっているので議論がめんどくさくなってしまっているんですけども。元々の部分にあるのは単純なお話ではあるのです。
だからこそ、少なくともイスラム教が政治と一体とされている間は絶対に認められないのではないかと思うんですよね。宗教が権力機構と一体になっているからこそ、そこを譲れない。だってそこを否定してしまったら「(国家権力からの)自由の権利」そのものが疑われてしまうじゃないですか。皮肉な話ではありますけども、今回の例のように政治家たちがそれを口に出せば出すほど、「個人を国家権力から保護する」という中心概念にとってはむしろ説得力は失われていくんじゃないかなぁと。
特にヨーロッパの人びと――国家と市民の間で流された血と苦悩を犠牲にした歴史からそうした教訓を当事者として学び取った人たちにとっては、そのラインは決して譲ることなんてできないんじゃないかと思います。


そうした『表現の自由』を押し付けようとする人たちは、上記の通り、多分に善意からではあるんでしょう。しかしその善意は悲しいほどに伝わらない。多分3分の1も伝わってない。

「多様性を認めるためにも我々の価値観に従うべきだ」
「その態度そのものが多様性を否定しているのだ」

かくしてお互いにこうした言葉をぶつけ合うことになってしまう。この両者は上記の会話のうちお互い前者と後者のどちらでも当てはまってしまう辺り根の深さが窺えます。見事すぎる堂々巡りです。メビウスの輪的ななにか。
文明間の対話をする為に「宗教的基準」を尊重すべきだ。
文明間の対話をする為に「表現の自由」を尊重すべきだ。
お互いに見据えているゴールはおそらく同じでありながら、しかし手段が決定的に異なっている。それだけならまだマシだったんです。そのうえ更にはお互いがお互いの手段について、それは「逆効果だ」なんて非難しあっている。当事者たちはそうも言っていられないんでしょうけども、まぁ他人事として見るならばこれほど愉快なお話もありませんよね。かなり他人事気分でいられる生まれる日本人でよかった。


そうなると話は最初に戻って、結局ゼロサムゲームにするしかなくなってしまう。そうすると少なくない日本の人びとはやはり「表現の自由」の側に立つのではないでしょうか。
私たちは反対の声が上がっていることを知りながら、それでも――それこそかつては自身で揶揄していたアメリカナイズのように――傲慢なコスモポリタニズムと言われながらも「表現の自由」を世界全体に当然あるべき価値観として広めるべきなのでしょうか?
もしくは、これはカール・ポパー先生の言うところの『開かれた社会』への移行期に起きる文明の緊張――生みの苦しみなのだ、なんて風に自らの正当性を楽観視すればいいのでしょうか?


個人的意見としては、逃げ道としてアマルティア・セン先生の「いい加減『宗教』に唯一無二のアイデンティティを付与させるはやめるべきだ」という意見に光明を見出したくなる所ではあります。だからといって、こんな風にだらだらブログを書いている時点で、やっぱり現実にそうしている人たちを止められる気もまったくしないんですが。あんなに怒っている人たちに向かって「君の人生にとって宗教はそこまで重要なものじゃないんだよ」なんてとても言えない。


みんながんばれ。