「文化的自由の為の多様性を維持する為に文化的自由を制限する」人びと

多文化主義は半死半生のまま一体どこへ。



朝日新聞デジタル:独政府、割礼を合法化へ 傷害罪判決にユダヤ教徒ら反発 - 国際
ということで6月位に話題になり「画期的*1」なんて言われていたドイツでの割礼の是非の問題でありますけども、見事に日和ってしまったそうで。当時も日記にしようかと思ったけど、ネタ的に続報がありそうだからとスルーし傍観した僕大勝利です。
あまり縁のない私たち日本人としては、どうしても某高○クリニック的なお話を思い出してしまいますが、まぁやっぱり彼らユダヤな人びとにとっては宗教的儀式としてかなり重要な意味があったりするんですよね。穢れた血を敢えて性器から流させる事がうんぬんかんぬん。しかし現代に生きる人びとから見るとある種の「愚行」にも見えてしまうそれらを宗教的行為だからといって全て看過すべきなのか、というとやっぱりそうではないわけで。 
――では一体何処にその許可と不許可のラインを引けばいいのでしょうね?




さて置き、この問題はそうした「宗教の自由」についての議論であると同時にまた、よりクリティカルな多文化主義における問題があったりするんですよね。つまり、文化的自由と文化的保守主義のコンフリクトを如何にして解決すればいいのか? という問題こそが。「まだ自発的な合理的判断がままならない幼少期の子供たちに、伝統的文化だからと自動的にそれを継承させようとする行為」についての是非。
まぁその解決が難しいからこそ、少し前まで「多文化主義は失敗した」なんて言っていたくせに、やっぱりドイツ政府の中の人たちもこうして触らぬ神にたたりなしとばかりになかったことにしてしまうんでしょうけど。


ちなみにアマルティア・セン先生はその著書『アイデンティティと暴力』の中で、多文化主義を考える上で「一体どのような基準で公正さを評価すればいいのか?」という点を明確にすることを避けては通れない、と述べています。

  • その公正さとは、他者からどれだけ「干渉されずに」いられるかどうかによって評価されるべきなのか?
  • あるいは「自由意志の選択」をどれだけ後押しできているかで評価されるべきなのか?

単一の文化ではなく多数の文化が並立していく社会。まぁそこまでは特に大きな異論の余地もないからいいんですよ。問題はその次の議論としてある、ではその文化の多様性を維持する為に何か行動を起こすべきなのか、という点について。多様性の維持と存続の為に前者を選べば「文化的自由」は必ず損なわれてしまうし、かといって後者を選ぶことは今回のように批難轟々になることは目に見ているし、そもそも多様性という選択肢を残しておくからこそはじめて選択の自由が存在できるわけで。
かくして「選択の自由の為の多様性を維持する為に自由を制限している」構図へ。えーいどっちやねん。まぁなんというかものすごく愉快なお話ですよね。


一見すると私たちはその美しき多文化主義を謳いながら、しかし実際には、一体何処まで文化的自由を擁護して、一体何処まで文化的保守主義を擁護するのか、その合意さえ得られていない。
そうやって現状の多文化主義はその内部に抱える根本的な矛盾をまぁ見て見ぬフリをして棚上げしてきた為に、結果としてお互いにどこまで口を出していいのかさえ解らない人びとだらけになってしまう。そして当然の帰結として、あるべき紳士淑女の態度として、お互いを理解しているという取り澄ました顔をしながらその実「相互無視」を続けるのです。だってどこまでが『自由の擁護』で、どこから先が『干渉』か、そしてそもそも多文化主義は何を何処まで擁護しているのか、合意された明確な答えなんか誰にもわからないんだから実のある対話なんてしようがない。しかし合意するにはやっぱり対話が必要なわけで。ザ・鶏と卵。
でもそんな曖昧な構図でこそ、現状の多文化主義は半死半生のままなんとかギリギリやっていけてもいるんですよね。でもやっぱりそんな不透明な関係性は、相互の対話ではなく個々の孤立を招いてしまうことになって、多文化主義ではなく複数単一文化主義へ至ってしまう。かといってそこを明確にしようとすると多文化主義の内部矛盾を解決しなくてはいけなくなってしまう。
いやぁ進むのも退くのも現状維持も地獄であります。見事な詰んでる感。ということで今回のドイツのように誰も彼もが「次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろうby訒小平」なオチへ。


やっぱり論理的な回答を未だ見出せない私たち。しばらくは多文化主義は半死半生のままなんだろうなぁと。
みなさんはいかがお考えでしょうか?