「線を引く」人びと

あるいは『エウレカセブンAO』の雑感的なお話。


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ということで中国さんちでは今尚大盛り上がりな反日うんたらかんたらであります。まぁ槍玉にあげられているこちらとしては色々とアレな人たちだなぁと生暖かい気持ちになってしまいますけども、しかし人間誰しもどこの国であろうとも一皮向けばあんなものでしかない、ということは言えるのかもしれません。
その社会が不安定で危機的状況に陥れば陥るほど、中の人たちはこうして「味方と敵」「ウチとソト」という解りやすい構図に逃げ込もうとしてしまう。


こうしたお話を考えていて、最近ようやく見た(今回はどうやらサッカー回のない)『エウレカセブンAO』の第22話でぴったりな言葉を使っていたのでタイトルに引用。主人公の祖父が、敵と味方ウチとソトの二元論に走ろうとする人々をして「そうやって線を引くのが独立か」とカッコよく嘆いておりました。まぁその辺は前作から続くテーマの一つではありますよね。人間とコーラリアンだとか、ガイジンと沖縄人だとか。で、その一方で「俺は何者でもない」と言ってのける線を引かない敵役のトゥルース君があのザマだったりして色々示唆的ではあります。


ともあれ、そんなおじいちゃんも「線を引こうとする人」たちを嘆いておりましたけども、実際にそうした振る舞いこそが民族や宗教や国家をして歴史的に数多くの悲劇を生んできたというのは、おそらくまったく正しい指摘であるでしょう。そうした歴史をわかっていても尚やめられない私たち。人間ってバカよね。それは最近の中国さんちや韓国さんちで見られる光景であるし、その一方で戦前の日本でもやっぱりあったことだし、同時に現代のヨーロッパや日本でもそうした人たちはそれなりに居るわけであります。最近の好例としては『9・11』直後のアメリカさんちの振る舞いなんかがよく挙げられたりしますよね。「われわれの味方か、敵か」なんてあからさまに言い放ってみせたブッシュさん。
敵か味方か、ソトかウチか、という単純な世界観へと走ってしまう人たち。


しかしながら、そうした二元論へと至る衝動って、単純に「愚行」であると切り捨てるだけでどうにかできるお話でもないのであります。というかそれはやっぱり私たちの人間の本能そのものでもあるわけで。アンリ・ベルクソン先生も『道徳と宗教の二源泉』の中で「自然状態から脱したばかりの人間は、そうした(内と外を明確にした)社会をつくるようにできている」と書いていらっしゃるように、私たちはむしろ社会的動物だからこそ、本能的にそうした場所へと到達してしまう。まぁ自然状態に帰ってしまうよりは、そうした二元論的な社会に帰ってしまう方がまだ後者の方がマシだと言えるかもしれませんが。
実際よく言われているようにそれは「共同体維持に有用であるから」という手法的な面からの要請でもあるでしょう。共同体の指導者・権力者たちが敢えて煽ることで一体性を維持存続させる。しかしそれだけではなく、私たち人間は本能的にそうした線引きに安心を覚えるように出来ているのです。攻撃的衝動であるよりは、むしろ社会の不安定さや不確実性に対抗しようとして、これまで自分たちを守ってきてくれたからと防衛的衝動から原始的な社会構造へと回帰しようとする。ボーダーレスではなく「線を引く」ことで安心感を得る為にこそ。
まぁ端から見るとそんな本能なんて「ダチョウが目前の危機から逃れようとして頭だけ隠して安心する*1」というのと一体何が違うのかという感じですが、しかしやっぱり当人たちからすれば大真面目なのでしょう。
なので個人的にはそうした「線を引こうとする」人たちをただ、民度が低い、などと言って見下して解決できるような問題ではないのだと思っています。


人間が社会の大変化や不安定化に伴う不確実性から逃れようとする際に生まれてしまう、避けられない衝動。むしろその排他性は攻撃衝動だった方が話は簡単だったかもしれませんよね。より緊急時の生存戦略のような防衛的反応だからこそ、根が深くて簡単に解決できない。人間はそんな「線を引く」という本能から抜け出すことができるのでしょうか?
安全な立場から彼らをバカにするのは簡単――概ねその通りなわけだし――ではありますけども、しかし不安を覚えている当事者たる人びとを論理的に説得するのは難しい。現在の中国や韓国でも少なくない数の同じ「ウチ」の人たちが、そうやって二元論へと走るのは不毛だからやめよう、といっても不確実性からの不安に際した人びとをやっぱり止められていないわけで。いわんや「ソト」たる私たちをや。
あの『3・11』以来日本の社会でもずっと悩まされ続けているように、やっぱり感情だけで論理は覆せないし、同時にまた論理だけで感情を説得し切るのはものすごく難しいのです。


こうしたお話は、社会の大変化とこれから先もずっと付き合い続けていかなくてはならない人類の葛藤と闘争の歴史でもあります。移行期だからこそ起きる緊張状態。いつだって私たちは、社会に予測不可能な変化が起きようとしている時にそうした住み慣れた洞窟へと逃げ込もうとしてしまうのだから。実際、まぁそうした世界観の方が楽ではありますよね。
いやぁ一体どうすればいいんでしょうね。「線を引く」人びとと私たちは一体どう付き合っていけばいいのか。産みの苦しみとして許容するしかないのか、あるいは人類がそんな本能を忘れられるときがいつか来るのか。人類総ニュータイプまであと何マイル?
ということでこうした疑問に『エウレカセブンAO』は完結編できっと答えを出してくれると期待しております。たぶん。



みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:迷信ではありますけどあくまで比喩として。ダチョウさんごめんなさい。