なぜ「ハシシタ」記事はここまで怒りを買ってしまったのか?

現代日本のマスコミの皆さんに特権意識は存在するのか? という所にまで行きつつあるお話。


まとめよう、あつまろう - Togetter
【橋下氏VS朝日】会見詳報(1)「週刊朝日、無知の集団だと思っている」(1/4ページ) - MSN産経west
ということで大盛り上がりの週刊朝日さんによる橋下さんへのアレ。うーん、まぁ、なんというか、「オメガバカ」で終わるお話ではあります。でもそれだけじゃ寂しいので少しだけ。


結局のところ、彼らはそれをただ単純に侮蔑表現として用いることよりも、あるいは生放送などでついうっかり本音が出てしまったということよりも、ぶっちゃけずっとタチの悪い態度が透けて見えてしまっていることに気付いていないんですよね。もしかしたら本心ではそうではないのかもしれない。しかしその態度が、実際に、読者からどう見られてしまうのか悲しいほどに無自覚なのです。
『バトシェバ症候群*1』と呼ばれる致命的な倫理的過失を犯す人々について。
元々、正当な手段によって高い地位を保持するようになった人たちが成功の結果として、自己満足や傲慢さ特権的な意識を持つようになり、かくして彼らはその肥大した自我によって「自分には一般の人々に課せられるような公正な倫理的基準が適用されない」という次元にまで至ってしまう構図。ここで重要なのは、彼らはそうした道徳基準が存在していること自体はきちんと把握している、という点で、その上で「それが自分にも平等に適用されることをまったく理解していない」のです。
彼らはバトシェバに惹かれたダビデのように、成功によって獲得したパワーを文字通り『乱用』してしまう。まさに自分だけは特別なのだと確信して。


マスコミの皆さん「だからこそ」本来高い基準が要求されるはずが、しかしまったく逆に、まるで彼らは自分たち「だからこそ」特別に許されると考えているんじゃないか――と、見られてもまぁこの構図からすると無理はありませんよね。
かくして多くの人々がそのあまりにも無邪気な二重基準に怒りを覚えてしまうことになる。
これならもっと嘲笑的に差別表現として使った方がまだマシだったでしょう。それならば多分に露悪的である以上、本人にも「ラインを超えていること」の自覚があるように見えるから。しかし単なる感情的な罵倒ではなくて、それを政治家への正当な批判という形で取り繕ってしまっている。
ただその最低限のルールを守らないだけであったなら、おそらくここまで炎上することはなかった。実際そういう人は今でも結構いらっしゃるわけで。それ単体として見れば結構ありふれた話ではあるのです。しかしそれをあの朝日さん(の子会社)が行為を認識した上でやってしまっては、どうしようもなく炎上するしかない。常日頃から社会に向けて言っていることと全く逆のことをこうして起こしてしまうのは、間違いなく彼らは自分たちだけは特権的に許されると考えているに違いない、という炎上へ。


単純にその失態そのものが責められているのではなくて、おそらくこれまでに積もり積もってきた燃料――彼らは自分たちのことを一般市民とは一線を画した特別な存在だと考えているのではないか、という疑念そのものが今回の件で問われてしまっている。真実はともかくとしても、端から見ていてその疑念がより強固になってしまっている。まぁそれを批判の矛先に立つ朝日新聞社グループの人たちがどこまで気付いているのかはさっぱり解りませんけど。



ちなみに、こうしたある種の『権力』の暴走を抑制するのには懲罰的なルールを決めるのはあまり有効な手段ではないんですよね。だってそのルール自体を出し抜かれてしまってはそれでおしまいだから。じゃあ何をすればいいのか?
――というとやっぱりそこで登場するのが素晴らしき民主主義政治的な手法であるわけです。
つまり、何故こんなことになったのか「当事者たる彼らに説明を要求する」ことこそが。それによって私たちは彼らの正当性を直接に判断する事ができる。現代民主主義政治の王道ではありますよね。その意味では橋下さんが求めていることはそれなりに適切な要求ではあるのでしょう。
朝日新聞デジタル:朝日新聞出版が「おわび」 週刊朝日の橋下市長連載で - 社会
その「おわび」で一体どこまで説明がされるのか、彼ら自身も大好きな『説明責任』をきちんと果たしてくれるのか、乞うご期待ということでひとつ。

*1:ゴリアテを倒し全イスラエルの王となったダビデが、ところがどっこい王となったあとには部下の妻(バトシェバ)を寝取ってついでに元夫は戦地へ送って戦死させちゃうはっちゃけっぷり、な故事から。