人間よ、これが『郊外』だ

新しい郊外のかたち。


野生生物に脅かされる米国 - WSJ日本版 - jp.WSJ.com
私たちの日本でもそうですけども、やっぱりあれだけバカでかい国土を抱えるアメリカさんちでは更に大変なんだろうなぁと。ていうかカナダも含めて向こうの人ってビーバー大好きですよね。毛皮を求めて新大陸に渡った人たちのDNAが受け継がれている気がしてくすっとしてしまいます。

 自然との戦いへようこそ。米国では自然保護活動や環境保護活動が成功を収め、野生生物の生息数は増加したが、増えすぎた野生生物をめぐって人間同士が争う事態が起きている。私たちは今、野鳥や野生の動物をごく普通に見かけるが、私たちの両親や祖父母はそうした生物に出会うことはほとんどなかった。野生生物は生息数が増加すると、これまでの生息域を超えて新たなすみかを求める。そこには私たち人間が住む地域も含まれている。米国東部地域では現在、これまで地球上のどの地域も経験したことがないほど、多くの人が多くの野生生物の近くで暮らしている。

 種の絶滅など生態系が苦しめられてきたことを思えば、素晴らしいニュースのはずだ。もしあなたが今日、車でシカをはねる4000人以上の1人でなければ。あるいは、子どもが使うサッカーグランドがガンのふんだらけになったり、あなたの置いた鳥の餌箱の餌を野良猫が勝手に食べたり、野生の七面鳥に植えたばかりの種トウモロコシが食い散らかされたり、ビーバーが私道を水浸しにしたり、クマがごみ箱を荒らしたりするようなことがなければ。こうしたことはまだ序の口だ。

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しかしまぁこうしたお話を見ると、バランスを取るのは難しいなぁと改めて思ってしまいますよね。
勿論これまでの歴史にあった「自然環境のことなど知ったこっちゃない」という態度はアレですけども、だからといって「(自然環境の為ならば)人間の都合など知ったこっちゃない」とやるのもぶっちゃけ同じくらいアレなわけで。極端から極端へ。回復基調にあったこれまではそれでも良かったんでしょうけど、しかしいつまでもそのやり方で続くわけがない。
まぁこの辺は例の聖書の創造論批判にあるような「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせ、全ての生き物を支配せよ」からの「だからこそ人間は『自然破壊』に手を染めたのだ」がある一方で、それはつまり逆説的に人間が『自然の管理者』としての原理的環境保護なポジションを目指す崇高な動機にも繋がってしまう面もあるのかと思うと色々愉快なお話ではあります。
あとは、それ以上に『過去の贖罪』という面もあるのでしょうけど。人権云々での事例を考えるとむしろこっちの方が厄介かもしれない。


ともあれ、共有地の悲劇の教訓も教えてくれているように、こうした構図をより良い状況へ維持存続させていく為にはやっぱり両者へのインセンティブが必要となるわけで。幾らそんな美しき崇高な目標だけを掲げても大多数の人びとはついてはこないんですよね。

郊外の住宅地は人のいない森よりはるかに多くの生物を養っている。多くの種にとって、郊外の住宅地の生物学的収容能力(食料や住まいの点で支えられる人口の上限)は森林の収容能力よりもはるかに大きい。生態学上の収容能力(ある種が生息地やそこに住む他の動植物に悪影響を与える限界)の点では、郊外の住宅地は必ずしも森林よりも大きいとは言えない。多くの種にとって難しいのは社会的な収容能力で、これは主観的なものだ。社会的な収容能力とは、ある生物が引き起こす被害と恩恵を比べ、世間的に見て、被害のほうが大きくなる限界点を指す。現在の野生生物との戦いの多くはここから始まっている。

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その意味では、現段階にいたって私たちは歴史上初めて「近代社会と自然環境の両立」という難問に直面しているのでしょう。かつては何も考えていなかったし、そしてこれまでは回復させるだけだったし、ではその回復させた後どう付き合っていけば?
大昔にあった自然のままの人間という時代もありましたけども、しかしそれと現代において最低限のレベルで要請されるモノ――食生活・住環境・公衆衛生・交通機関などと単純に比較できるわけありませんよね。
「(都市部から見ての)郊外」から「(人間の生活圏から見ての)郊外」へ。
幾らこちらが一方的に境界線を引いてみても、あちらにそれが伝わるわけがない。緩めすぎれば押し寄せてくるし、かといって厳しくし過ぎることも現代では難しい。回復だけを考えていた時代には溢れていた無邪気なフィクションにあった丁度いい(人間に都合のいい)「自然とのふれあい」なんて当然あるはずもなかった。かくしてハンター待望論の時代へ。


みなさんはいかがお考えでしょうか?