便乗値上げと買い占め行為

「公正さ」の概念について。思考実験的なお話。


災害と便乗値上げ - himaginary’s diary
ということで大変面白いお話あります。やっぱり今回のハリケーン「サンディ」でもやっぱり便乗値上げはあったんだなぁと。しかしまぁあちらではぶっちゃけ毎回起きている議論ではありますよね。だからこそ、某サンデル先生の正義に関する白熱教室のテーマの一つともなっているわけで。
もし災害時の便乗値上げを「公正さに欠けている」とした場合、その『公正さ』に従って誰かの取引の自由に介入することは許されるのか? そもそもその『公正さ』とは一体誰が決めるのか?


そうした天災がより身近にある私たち日本人からすると、だったら初めから災害に強い都市造りにしておけば良いのに、と素朴に思ってしまいますけども、その辺を突き詰めると最終的に「文化の違い」という一言で終わってしまいそうなお話ではあります。
それでも、私たち日本にとってはあの3・11ではもう一つ象徴的な事例があったわけですよね。多くの地域で見られた買い占め行為。
この『売り手』に要求される公正さと、『買い手』に要求される公正さ、というのは日米間にある(文化的)価値観の違いがあって面白いお話ではないかなぁと思うんですよね。

カーネマンの調査対象の人々は、彼らがアンフェアと感じるやり方で値上げした企業を罰する、と答えた。昨日私は雑貨店で通常の値段の倍を払ったかもしれないが、その際、ぼられたと感じたことだろう。嵐の後には、別の雑貨店で買うようになるかもしれない。
企業側もそのことは分かっている。カーネマンは、経済の基本理論が人々のフェアネスの概念と矛盾する場合、人々がフェアだと思うやり方で行動するのが企業の長期利益に適っている、と論じている。

災害と便乗値上げ - himaginary’s diary

その意味では、やっぱりその『空気』による支配が強力なのが私たち日本の社会だったりするわけで。実際、まさに上記引用先のような流れは日本では実現しているんじゃないかと。それこそ裏切られたと感じた消費者たちが復讐しようぜ、という暗黙の空気感。すごくありそうです。
ぼられたと感じた消費者の復讐という『フェアネス』による長期的な均衡って、おそらくその通りだとは思うんですけども、一方で、しかしそれって更に一歩進むと「何があっても値上げできない・許されない雰囲気」が出来てしまうんじゃないのかなぁと。
もちろん日本で便乗値上げがまったく無かったわけではありませんが、しかしやっぱり毎回話題になるアメリカのそれと比べたらやっぱり少ないと言えるのではないでしょうか。復讐に熱心な私たち。
そしてその結果として、あの時にも大きな問題になったのは便乗値上げよりも、むしろ買い占め行為の方だったと。


こうして考えてみると、アメリカでは『売り手』側の公正さこそが問題となり、そして日本では『買い手』側の公正さこそが問題となっている。
この様な興味深い違いはやっぱり国民性というような差から生まれるものなのかなぁと。


みなさんはいかがお考えでしょうか?