神は労働に宿る

日本人の無宗教から考えた適当なお話。


「無宗教」が世界の第3勢力、日本では人口の半数占め=調査| 世界のこぼれ話| Reuters
ということで日本では人口の半分を占めるそうですよ。まぁこういうお話になるとしばしば「オレ流日本人宗教論」が盛り上がってしまうわけですけども、それに便乗して以下適当なお話。あくまで個人的見解ということでひとつ。

無宗教という隙間を埋めた労働教

一般に宗教社会学知識社会学では『宗教』の意義とされているのは「究極的な前提の次元における正当性の付与」であるとされています。それこそ現代でも偶に見かける「私たちはなぜ生きているのか?(そして死ぬのか?)」というようなあまりにも根本的な問いに答えるとき、根本的な意味や秩序を説明するとき、宗教というモノは正当性を与えてくれる指針となるからであります。
その視点からすると、私たち日本人の大多数は無宗教でありながら、実は既に宗教的な解答に辿り着いているんじゃないかと思うんですよね。つまりそこでは、労働こそが人生の目的であり、そして「善」そのものであるとされている。経済的な意味だけでなく、むしろ人生をより豊かに生きるためにも「労働すること」こそが救いの道であると素朴に信じられている。
「日本人が信仰しているのは『労働教』なのだ」
日本社会への描写としてこうした『労働教』という議論自体は決して珍しいものではなくて、一般的に日本的な(歪な)労働風景を批判する言説としてしばしば見かけるものでもあります。しかし個人的にはより中立的な意味でそれは正しい指摘でもあるんじゃないかなぁと。「いかに働くか」こそがQOLである、なんて。
そしてだからこそ、逆説的に一部の熱心な人びとは「勤労的ではないように見える」人々を、それこそ不信心者として扱うように非難することになるのです。彼らは背教者であり、裏切り者であり、つまり神を信じていないのは許せない、と。この辺は後述。


ちなみに僕のこうしたお話の下敷きの一つとなっているのが、ローレンス・ラリー先生が著書『三つの原理』で述べている「労働者の時代」という概念のお話であります。
そこで彼は『労働教』たる人びと――儒教プロテスタントマルクス主義を代表とする勤労を美徳とする宗教や文化を持つ人びと――を、ただの『拝金主義』と断じるようなものではなく、むしろ『仕事第一主義』であると仰っています。故に、そうした国こそが、ポール・ケネディ先生が看破した近代以降の国際関係である「ただの軍事力ではなく総合的な経済力こそが国家興亡を決定する」世界における勝者となっているのだと。まさに『労働教』の名に恥じぬ成果を挙げて見せた国家たち。こうした流れは労働者という人びとの誕生と共に始まり、同時に国家からの要請でもある富国強兵政策などによっても加速し、『労働教』は徐々に社会における影響力を強めていったのでした。
かくして『労働教』は社会における新たな常識をも定義するだけの力を持つようになる。中心教義としてあった「勤労」という概念は、やがて神聖さと善性さという属性をも獲得し、更にはいつしか「生きる目的」という所にまで昇華する。
生きることとは、つまり「善く働くこと」である。
このプロセスは、おそらく既存宗教の影響が少なかった所や、従来からの文化や価値観と親和性が高かった所ほど劇的に進んだのではないでしょうか。「一体自分たちは何の為に生きているのか?」その空白地帯に『労働教』は見事に浸透した。一方で元々そうした「善く生きる」ことについての明確な指針があった場所では、比較的大きな影響を持つことはなかった。


こうして染まりきらなかった人びとは、染まった人びとを見て半分笑いながらこう聞くことになるのです。

「あいつらは一体何の為にそこまで一生懸命働くんだ?」

対してそれを言われた方は、心底不思議そうに返すことになる。

「それ以外に一体何の為に生きているんだ?」


労働とは目的ではなく手段に過ぎないという人たちと、労働とは手段ではなく目的そのものであるという人たち。
『労働教』への信仰心の有無。




元々書きたかった本論に辿り着く前に長くなりすぎたので前段でおわり。次回「労働教原理主義派な私たち」に続くかもしれない。続かないかもしれない。