僕にその手を汚せというのか

あるあるジレンマ。


スピルバーグのリンカーン映画は「正しい目的なら陰謀、妥協、駆け引きは許されるか?」を描くらしい(町山智浩「サイゾー」記事から) - QUIET & COLORFUL PLACE- AT I, D.
辺りを見ていて考えたお話。

ホーガン氏は
リンカーンのこのメッセージは、ネット上の多くのブロガーが覚えておくべきものだろう:政治とは、物事の達成を目的とするものである。我々は倫理的な潔癖さを求めるあまり、物事の進歩を阻害してはならない」
としている。
なかなか含蓄のある名言だが、
ただし、この弁明はリンカーンオバマ(とその支持者)が使えるかもしれないけど、安倍晋三橋下徹小沢一郎前原誠司石原慎太郎嘉田由紀子・・・(とその支持者)だって使えるのかもしれないわねえ。

スピルバーグのリンカーン映画は「正しい目的なら陰謀、妥協、駆け引きは許されるか?」を描くらしい(町山智浩「サイゾー」記事から) - QUIET & COLORFUL PLACE- AT I, D.

まぁ実際伝統的な政治哲学の議論ではあるんですよね。政治家をはじめとするリーダーや指導者達が直面する難問。
上記リンク先のコメント欄でも指摘されていますけども、ウェーバー先生の『信条倫理』と『責任倫理』の区別はその議論の代表例であります。

  • 信条倫理という『善い意図』こそを条件にするということは、道徳的に危険な手段を用いることを一切拒否しなけれなばない。つまり究極的に「正しきを行い、結果を神に委ねる」ことになる。
  • 責任倫理として『善い結果』こそを追求する時には、道徳的にいかがわしい手段をそこから完全に排除するわけにはいかない。つまり究極的に「魂の救済は危うい」ものとなる。

そして、これら両者はどう考えても両立させたり妥協することは不可能だろう、と。
宗教家と政治家。義務論と結果論。動機主義と功利主義。やはり伝統的なテーマではありますよね。


関連して個人的にこうしたお話を見ていて思い出すのが、これまでの日記でも何度か書いたマイケル・ウォルツァー先生の『汚れた手』の議論であります。
もし本当に『結果』だけを追求することが正解であるのならば、実際には「手は汚すこと」も正しいはずなのです。しかしそうではない。「手が汚れる」ということは、結局人間が人間としてやってはいけないことをやってしまったから、ということ他ならない。どう言い繕おうが手は汚れてしまうものなのです。そしてその上で、こう問わねばならない。
正しい目的の為ならば、その手を汚すことは許されるのか? もしそれが最高度緊急事態ならば?




さて置き、先日にも『脱原発』派の皆様へのソウカツとして「そんなに大事だったのならば野合でもなんでもすればよかったのに」と書きましたけども、しかし結局ああして見事にバラバラに戦い各個撃破された人たちを見ると、やはり彼らはその手を汚したくなかった――その自身の純潔性を失いたくはなかったんだろうなぁと。
かくして(信条倫理を重視する)彼らは今回のタイトルのような地平に至り、そして(責任倫理を重視する)老獪な政治家たちはこう問い返すのです。

君たちインテリ、ブルジョアアナーキストは、純潔さを口実にしてなにもしない。……このわしは汚れた手をしている。肘まで汚れている。わしは両手を糞や血の中につっこんだ。……では、清廉潔白に政治をすることができるとでも考えているのか?*1