何も決められない政治と、勝手に決められてしまう政治

両極端にしか振れない不器用な私たち。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36871
ということでエコノミストさんちの「欧州化するアメリカ」というお話。まぁ逆に「アメリカ化する欧州」でも、あるいは私たち日本人からすると、「日本化するアメリカとヨーロッパ」でもしっくりくるのではないでしょうか。決められない政治に陥る人びと。
やっぱり日本でも昔から言われ続けてきたお話ではありますし、そして「危機が迫らなければ動けない」と長年嘆いてきたりもしましたけど、昨今の海外での危機とその対応の迷走を眺めると結果として何処の国でも「似たようなレベルでしかなかった」ということが見事に露見したよなぁと。欧州にしろ米国にしろ、結局彼らは危機の最後の最後になるまで行動することができず、更には追い詰められても尚問題を積極的に先送りしようとしている。
いやぁものすごく見慣れた光景で微笑ましくなってしまいますよね。
結局私たちが「日本固有の悪癖だ!」と考えていたそれは、実は民主主義政治それ自体ががもっているもっと根の深い問題だったのだと。一定規模以上の集団において必ず陥る(ようにしか見えない)「決められない政治化」なのだと。
『先駆者』を自負する私たちとしては、素直に喜べばいいのか、それとも絶望すればいいのかよくわかりませんが。
良かれと思って多くの自由を付与した結果、いつしか無数に散らばったそれぞれの自由を収集がつけられなくなってしまった人びと。
――まぁそれだけならば話としては単純でもあったんですよね。ただ前を向いてさえ居れば良かったのだから。


ところがその一方で、出来る限り自由を制限することで、より効率的な「(勝手に)決められる政治」を目指す人びとが居るわけです。
60年間、変わらず腐敗と不正を続けてきた中国 国有企業でも変わらない軍部優位~中国株式会社の研究(196)(1/3) | JBpress(日本ビジネスプレス)
共産党の記事検閲は1034本、中国「南方週末」編集部 - MSN産経ニュース
その典型例として立つのが、現代中国さんちであります。まぁこれも昔から言われ70年以上前には実践もされてきたお話ではあるんですよね。「一つの民族、一つの国家、一人の総統」なんて。国家としての『総力戦』を戦おうと決意する人たちにとっては、そのようなやり方の方が確かに合理的ではあるのです。
文字通り『自由』を引き換えにして、その効率性を追求しようとしている彼ら。



この辺の政治システムと自由をめぐるジレンマって、先日書いた僕にその手を汚せというのか - maukitiの日記でのウェーバー先生の『信条倫理』と『責任倫理』をめぐるお話に近い伝統的な議論になったりするのかなぁと少し思ったりします。
私たちは何があっても決してその道徳的な正しさ=自由を手放してはならないのか?
それとも、もし結果のみを考えるならばそんな自由を手放すことさえも選択肢に入れるべきなのか?




まぁトクヴィルさん風に言うと、不完全な人間がやる政治なんてどこまでいっても「『多数の横暴』か『少数の横暴』か」という程度の違いしかないだろう、と言ってしまっては身も蓋もありませんけど。
みなさんはいかがお考えでしょうか?